光電波通信の基礎研究




(株)エイ・ティ・アール光電波通信研究所 代表取締役社長 猪股 英行



1.試験研究の目的と概要


 本プロジェクトは、将来、無線通信が最も重要な役割を果す移動通信、衛星・宇宙通信の分野に重点を置き、これらに共通に必要となる高機能伝送系及び小型・軽量化通信系のための基礎技術の確立を目的に、研究期間10年、研究費総額165億7,300万円の計画で1986年4月26日に開始され、1996年3月末日をもって終了しました。将来の高度な通信インフラストラクチャーの一端とともに、その実現に必要な種々の研究テーマを図1に示します。それらを整理して以下の五つのサブテーマのもとに研究を進めました。それらは、将来の高度な通信インフラストラクチャーが備えるべき、グローバル、パーソナル、大容量の情報伝送を高速で可能とするための要素技術の研究であり、(a)小型・軽量、高効率、大容量の通信が期待できる「光衛星間通信」、(b)複雑な電波環境におけるインテリジェントな機能の発揮が期待できる「アクティブアンテナ」、(c)移動通信に特有の厳しい電波伝搬条件を克服するための「信号処理・干渉除去」、(d)携帯型端末の小型化等に必須な、無線周波数帯における(アナログ)「回路小型化」、(e)新しい物性や物理現象を利用し、従来に無い新しい電子デバイスや光デバイスの実現を目指す「通信用デバイス」、の研究です。

2.研究テーマ発掘のポイント


 研究内容の具体化にあたっては以下のことに留意しました。それは、短いタイムスケールで或る程度の進展が見込めるような従来技術の延長線上に位置する研究(これも実用化に際しては重要)では無く、新しい観点からの段階を一歩一歩積み上げるような(その過程が研究であり、センス、時間、努力、忍耐を要する)、そして、一歩一歩積み上げることがうまくできた暁には、結果として大きなブレークスルーが得られるかもしれないような研究とすることです。
 具体例として通信用デバイスの研究を考えてみます。現在幅広く実用化されているGaAs半導体デバイスはGaAs結晶を垂直に切り出した面((1,0,0)面)を用いており、また、今なお、この面が有する物性を高度に利用するための研究に多くの研究機関がしのぎを削っていますが、本プロジェクトではGaAs結晶を斜めに切り出した面((1,1,1)面等)、いわゆる高指数面の研究を取り上げることにしました。その当時、高指数面の研究はまさしく基礎研究段階で、(1,0,0)面に比べて発光効率などの物性値が優れているとの指摘がなされているに過ぎませんでした。しかし、高指数面は優れた物性を有するという点でポテンシャルの高い材料であり、このポテンシャルの高さを徹底的に追求してデバイスに利用することができれば、従来のデバイスがやがて突き当たるであろう技術的な壁に対するブレークスルーに成り得るものと判断しました。
 さて、GaAs高指数面の優れた物性を利用できるようにしてやろうという信念のもとにMBE装置等を導入して実験的な研究を開始しましたが、その第一段階となる、「きれいな膜面」が得られるようになるまでにも大変な試行錯誤と年月(約4年)を必要としました。そして第二段階として、GaAs高指数面にSiを不純物に用いてできる伝導型(p型かn型)を、膜を生成する際の諸条件によって精密に制御する技術を確立できたのは大変大きな成果でした((1,0,0)面半導体では伝導型の制御に異なる不純物を必要とするので、p型とn型の接合を得ようとする場合の工程が複雑となる)。これらの成果の積み上げが幸いにもうまくできたことによって、簡単な構造と工程による横型トンネル接合トランジスタを実現でき、エサキダイオードの発明以来の長期にわたる懸案であった、トンネルデバイスの三端子化に大きなブレークスルーとなり得る答を出せたものと考えています。GaAs高指数面の研究を第一歩から始めたことによって新たな知見やノウハウを多々得ることができ、また、それらの成果を国際会議等で積極的に発表したことにより、現在では本分野における世界をリードする力量がATRに在ると広く認められています。
 以上、テーマ発掘のポイントをGaAs高指数面の研究にあてはめてご紹介しましたが、次頁以降で述べる主要な研究テーマにおいても、このポイントを強く意識して取り組みを進めました。

3.プロジェクトをふりかえって

 本プロジェクトを実施した1986年度から1995年度までの研究者数、研究発表件数、特許出願・登録件数の推移を図2〜4に示します。これらの結果には以下のような運営方針が反映しているものと思います。
(1)発足当初の研究員の確保に大変な努力を払いましたが、その甲斐が早くも2年目の1987年には現れ、研究者の数はほぼ40人の定常状態に達し(図2)、直ちに活発な研究が開始され、新たなアイデアが生み出されました(図4)。
(2)研究の1サイクルとして、或る程度の見通しが得られた段階で可能なものは特許出願し、国内学会で発表し、さらに深めて研究会で討議し、国際会議発表で自信をつけ、論文にまとめて投稿するというステップを踏むように指導してきましたが、ほぼ達成されていることがわかります(図3)。
(3)研究者の約8割を占める出向研究員の滞在期間が約3年であるため、対外発表の件数には3年周期の傾向が見られます。出向の初期にアイデアが多く出(図4)、出向期間の後半以降に研究発表が多くなっており(図3)、上記の研究サイクルが順調に進んだことを示しています。
(4)特に、国際会議での発表にしりごみしないように注意しており、年に1回の国際会議での発表は、“義務に近い権利である”と位置づけて指導してきたことが徐々に実っています(図3)。また、その機会を利用して代表的な研究機関を訪問し、交流を深め、見聞を広めることを奨励してきました。その結果、1回の外国出張の平均は10日を越しています(ただし、最長でも2週間)。
(5)1989年度に研究発表件数が微減し、特許出願件数の減少が見られますが、これは、日々の研究の舞台を発足当初のツイン21ビル(大阪)から、現在の関西文化学術研究都市の本舞台に移行した際の諸々の制約が現れたものです。

4.主要な研究成果

 光衛星間通信

レーザのビーム幅が極めて狭いことを利用して衛星間の通信を高効率に行うために必須となる、1μ rad以下の捕捉・追尾精度を有する高性能光アンテナ、高速信号の高出力・高感度送受信の技術確立に重点を置き、装置の試作開発を行った。また、これら装置の性能を地上実験室内において評価するための「自由空間レーザ伝送シミュレータ」を開発し、実環境を模擬した総合実験を通じて、光衛星間通信方式の基礎技術を確立した。さらに、光衛星間通信が重要な役割を果たす2層構成衛星通信ネットワークを提案し、その有効性を示した。

●小型捕捉追尾系
高精度非球面鏡を開発するとともに、独自のジンバル軸配置により20kgという小型軽量化を達成した。

●レーザ伝送シミュレータ
光コンパクトレンジ法により、姿勢変動のある衛星間での狭ビーム伝送を短い距離(17.5m)で正確に模擬できる。

●高速高出力光送信器
波長0.8μm帯のLDにより2.5Gbpsの高速動作と60mWの高出力を達成。

●高速高感度光受信器
Si-APDとGaAsプリアンプを一体実装し、2.5Gbpsの高速、-27dBm(BER: 10-6)の高感度動作を実現した。

●ネオジウム添加ファイバ型光増幅器

LD励起Nd: YAGレーザの高い安定度を有する1.06μm光を30dB以上増幅でき、光送受信器の特性を大幅に改善できる〔レーザー学会優秀発表賞受賞〕。

●2層構成グローバル衛星通信網構想

マルチメディアの通信に適した2層軌道構成によるグローバル衛星通信システムを提案し、この中で重要な役割を果す光衛星間リンクの基本特性の検討を行った。

 アクティブアンテナ

移動体搭載を想定し、送受信号分離度の良いアンテナ素子、干渉波除去アルゴリズム、信号処理部のASIC(専用LSI)による小型実装法等の技術の確立に力点を置き、次世代のアンテナとして期待されるディジタルビームフォーミング(DBF)アンテナの有効性を実証した。また、超広帯域信号のビーム形成機能を有する光制御アンテナ(光の空間並列信号処理機能を利用したマイクロ波アンテナ)の基礎技術を確立した。

●移動体衛星通信用L帯DBFアンテナ

MMIC一体化に適したスロット結合で、送受分離度の高いセルフダイプレクシングアンテナ(単体性能で分離度40dB)を開発した〔電子情報通信学会学術奨励賞受賞〕。
マルチビーム形成やアダプティブビーム形成のための信号処理部を小型に実現するASIC実装技術を確立した。インテリジェントアンテナとしてのDBFアンテナの移動通信への導入可能性を実証した。
電波暗室でのDBFアンテナ評価実験や衛星電波の移動受信実験によりDBFアンテナの高機能性(移動体がその進行につれてどのように向きを変えようとも、衛星等基地局の位置情報を必要とせずに自動的に所望波を捕え、干渉波を除去できる)を実証した。

●光制御アレーアンテナ
光の空間並列信号処理機能に着目した新しいタイプのマイクロ波アンテナ。光給電部は周波数依存性が無い(1.5〜20GHzで実験的に確認)ので、超広帯域の複雑形状ビームが簡単な構成で実現できる可能性を有する。実用までには、光・電気変換効率の改善等克服すべき課題はあるが、基本的機能は実証された。

 信号処理・干渉除去

移動通信で問題となる多重波干渉による劣化をディジタル信号処理により改善することを目的に、ニューラルネット等化器やアダプティブアレー基地局アンテナを提案し、優れた特性を明らかにした。また、高性能干渉除去方式を提案し、干渉除去と波形等化の両機能に優れた効果が得られることを示した。さらに、これらの手法を応用してレーザマイクロビジョンの実用化技術を確立した。

●ニューラルネット等化器

並列処理による高速化が有望なニューラルネット技術を適用した波形歪等化器を提案した。シミュレータによるリアルタイム等化実験で、高速な収束性を確認した。

●アダプティブアレー基地局アンテナ

セルラー基地局にアダプティブアレーアンテナを適用し、干渉波除去に非常に有効なことを明らかにした。隣接したセルでも同じ周波数が使え、周波数利用効率が16倍程度改善できる。

●高性能干渉除去方式
アダプティブアレーアンテナと等化器を有機的に結合した干渉除去方式を提案した。干渉除去と波形歪等化の両者に大きな効果があり、現行の100倍程度の高速化が可能になる。

●レーザマイクロビジョン

半導体や光学部品に含まれる10μmオーダの微細な3次元内部構造を、数分以内で非接触・非破壊に診断し、表示する装置の実用化技術を確立した。さらに数10分の信号処理により1μ mオーダの分解能で3次元像が得られる見通しを得た。

 回路小型化

アナログ回路の小型化に必須なMMIC(モノリシック・マイクロ波集積回路)の高集積化、高周波化を目指して、線路一体化FETや多層化等の新たな構造を提案し、小型化と共にミリ波帯への高周波化を達成した。さらに、光と電波を融合した光ファイバ・ミリ波パーソナル通信の伝送実験により、移動通信でもマルチメディア化が可能なことを明らかにした。

●線路一体化FET(LUFET)

線路とFETの電極を一体化する構造を提案し、小型化(集積度:約3倍)を達成した〔IEEE Microwave Prize受賞〕。この構造により各種回路の広帯域化も実現した。

●多層化MMIC
半導体基板上に誘電体層を設け、その上に受動回路を積層する多層化MMICを提案し、さらなる小型化(集積度:約10倍)と設計自由度の増大を達成した〔電子情報通信学会論文賞受賞〕。また、多層化構造を活かした高性能な方向性結合器の開発により、各種機能回路を実現した。これらのMMICは50GHzまで高周波化できた。

●光/ミリ波変換器
今後の光ミリ波集積回路などの重要性を捉え、光電波融合技術の検討を進めた。HEMTやHBTの光応答性を利用した光/ミリ波変換器を開発し、ミリ波信号を光に乗せて光ファイバで伝送する基礎技術を確立した。

●光ファイバ・ミリ波パーソナル通信
ミリ波無線通信と光ファイバ通信を融合して両者の特徴を活かしたシステムを提案した。モデルシステムの構築・伝送実験(40GHz帯、伝送速度100Mbps以上)により、動画伝送など大容量パーソナル移動通信の可能性を示した〔電波功績賞受賞〕。制御局からミリ波電波を光ファイバで直接伝送することにより、無線基地局を小型化・経済化できる。

 通信用デバイス

新しい物性や物理現象の解明およびその利用に重点を置いて、これまでに無い新しい通信デバイスを実現することにより通信デバイスの高機能化、高性能化への新しい道を開くことを狙いに研究を進めてきた。具体的には、新物性を示す材料の探索、高機能光デバイスに繋がるデバイス構造の開発、更には計算物理の手法のもとに非線形(複雑系)ダイナミックスを利用した新デバイス概念の創出という課題に取り組んだ。

●横型トンネル接合トランジスタ
GaAs高指数A面の特性である、シリコン不純物の伝導型をp型またはn型に制御できることを利用して、横型のバンド間トンネル接合を実現した。更に、簡便な方法でゲート電極を形成し、集積化に適し、高速動作、多機能性が期待できる横型トンネル接合トランジスタを実現した。

●面発光レーザ
GaAs高指数面((311)A面)が持つ優れた光学特性とその異方性を利用して、世界最小レベルのしきい値電流密度(160A/cm2)とレーザ光の偏波制御性を有する高性能面発光レーザ(波長:〜950nm)を実現した。

●超格子キャリア輸送の新しい素過程の解明

超格子内の光励起キャリア輸送において、従来不明であったバリア中のX量子準位(破線の準位)の働きを、新たに発見したX準位を経由した輸送機構(赤の実線で示した経路)をもとに解明し、キャリアの捕捉、輸送遅延に影響を及ぼすこととともにX準位が関与する発振現象の存在を明らかにした。

●超潤滑
電気抵抗がゼロとなる超伝導状態と類似した、物質が接触する面内での運動摩擦がゼロとなる超潤滑状態が存在することを理論的に予測するとともに、その存在を実証した。

●光カオスデバイス

カオスが有する変化の多様性、自律性を利用したカオスデバイスを提案した。非線形遅延帰還型システムにおける光カオスの発生機構、制御法を明らかにし、光カオス利用の自律的信号発生、記憶、検索機能を実現した〔科学技術庁第53回注目発明〕。更に、高速光カオスデバイスのプロトタイプ回路を試作し、通信系への適用を図り、光ネットワークの合流器における光パケット信号の衝突の自律的回避をデモし、その有効性を実証した。

5.まとめ

 光電波通信の基礎研究として10年間にわたって取り組んだ五つのサブテーマの概要と主要な研究成果をご紹介しました。それぞれ当初目標を達成するとともに世界の注目を集める成果をあげるなど、学術的、工学的に大きく貢献することができました。また、これらの成果の中には早期の実利用が期待できるものもあり、それらについては実用化に向けた展開を図っております。世界の技術開発動向、社会・経済動向等を踏まえますと、本研究分野は今後ますます重要性を増し、さらに発展させる必要があります。
最後に、10年間にわたり多大なご支援・御協力をいただいた内外の関係機関の皆様に厚く御礼申し上げます。


プロジェクト概要

試験研究期間:1986年4月〜1996年3月(10年間)
試験研究費総額:166億円
研究員:延べ154名


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