知的通信システムの基礎研究




(株)エイ・ティ・アール通信システム研究所 代表取締役社長 寺島 信義



1.試験研究の概要

(1)研究の目的

 21世紀の高度情報社会を展望したとき、私達にとって情報通信サービスが、益々重要な役割を果たすことが予想されます。情報通信サービスが、私達にとってなくてはならない物になればなるほど、誰にでも使い易いヒューマンフレンドリーなサービスが求められます。そこで本試験研究では、各種通信システムにおいて、ソフトウェアに重点を置いた基礎研究を行い、通信システムの高度化、知能化を図ることを目的としました。

(2)研究の概要
 研究期間10年を前期(4年)、中期(3年)、後期(3年)に分け、前期では、関連要素技術について幅広い研究を展開するとともに、研究目標イメージの具体化を図りました。中期では、研究目標イメージに沿って重点化したテーマに展開を行い、後期では、これらを集大成し、基礎技術の評価と確立を行うこととしました。
この間、基礎技術研究促進センターより1990年、1993年の2回にわたる中間時技術評価において、高い評価を頂いたところであります。
 研究の目的を達成するため、(a)通信ソフトウェアの生産性向上、サービス間の競合検証、ソフトウェア改造時の波及範囲の抽出等をねらいとしたソフトウェアの自動作成、(b)受け手主体の次世代テレビ会議システムの構築をねらいとした臨場感通信会議への知能処理応用、(c)臨場感通信会議のための画像処理等の信号処理、(d)ネットワークやデータベースでの情報漏洩を事前に検出するセキュリティの4つのサブテーマに分けて研究を行い、これらの研究テーマについて、10年間精力的に研究を進め、種々の成果を得ることができました。

2.プロジェクトを振り返って

(1)具体的な目標イメージの創造

 2〜3年毎に変る出向研究員が研究の中心を占めること、しかもいろいろな機関、会社から出向してくること、外国からの研究員も多いこと、研究が時限研究であること等を考慮すると、研究目標のイメージが明瞭で具体性があることが望ましいことは言うまでもありません。そこで、この試験研究では、つぎのような目標設定を行うこととしました。
 まずソフトウェアの自動作成に関する目標設定についてであります。今後、通信の高速化、高機能化により通信サービスの多様化が予想されます。そこで本研究では通信の専門家でなくともサービス仕様を記述し、サービスをシステムに導入できることを目的に「誰でもがサービスを定義し、その動作を確認できる」仕様記述、動作確認の研究を目標に設定しました。また、同時に「新規にサービスが導入された時の既存サービスとの競合検証が自動的に行える」ことなどを目標に置き、このような目標に向かって研究者がそれぞれの創意工夫を行い、研究を行える環境を整えました。
 また、もう一方の研究の柱として「3次元画像の認識、記述、再構成」を目標として設定しました。私達は「臨場感通信会議システム」という新概念を世の中に先駆けて提案し、この具体イメージの下に画像の認識、記述、再構成、表示の研究を行うことにしました。このような具体的イメージを各研究者が念頭において、それぞれのテーマを研究することで、最終的に同じベクトルに収束することが期待できるからです。
 そして、具体的イメージを持つことにより、「ソフトウェアの自動作成」にしても「臨場感通信会議システム」にしても、要素技術を統合してプロトタイプが容易に構築でき、要素技術の評価に役立てることができたものと思われます。さらに、このような基本概念が各自の脳裏にあるために効率的な研究のブレークダウンが行われたものと評価しています。

(2)目に見える研究所
 基礎研究というのは、息の長い、目立たない研究の積み重ねであります。しかし研究所が国を始め多くの民間の企業からの出資をいただいて成り立つ以上、研究活動が目に見える形になっていることが望ましいことも確かで、研究が目に見える形になれば、外部の方にもご理解いただくことができようというものです。そこで、前節に述べた具体イメージの明確化による効率的な研究推進と相まって、この具体イメージを具現化することで研究所の顔が見えてくるわけで、その1つが「ソフトウェア自動作成システム」であり、その1つが「臨場感通信会議システム」であります。「臨場感通信会議システム」は1994年9月に京都で開催されたITU(国際電気通信連合)の全権委員会議の展示会に出展し、大変好評を頂いたところであります。こればかりではなく新聞取材、雑誌取材、見学等で取り上げられ、わが研究所の顔としての役割を果たすところまできたといっても過言ではないと思います。
 研究成果があがるにつれ、研究成果の普及も大切になってきます。世界的に成果が知れわたるにつれて学術的国際学会から招待講演の依頼も舞い込んできます。このような機会を積極的に活用して、講演やデモを行うことで成果の世界的な普及に役立つのであります。研究者、マネージャと色々なレベルで対応することで、われわれの成果の普及がきめ細かい世界的な拡がりを見せることになりました。

(3)出向期間に見合ったテーマ設定
 研究を実際に行うのは出資企業から派遣される研究者であり、外国からの研究員であり、プロパーの研究員です。これから研究員が十分に力を発揮できる環境作りが極めて重要であり、そのために研究所にきた時に問題意識を持たせることが大切です。出向研究員であれば出向期間中(2〜3年)に何を目標に研究を行うかを意識づけ、最低限の目標として論文、特許、国際会議、それぞれに少なくとも1件投稿することとしました。このような問題提起を行い、あとは研究者が自分なりに計画をたて研究を実現して行く訳で、概ねこの目標は達成されたものと評価されます。そしてこのようなノルマを具体的に設定することで、研究者のやる気もでてくるのであります。

(4)柔軟なチャレンジ精神
 研究にあらかじめ答は用意されていません。答が判っていることは研究をする価値はないと言えます。テーマによっては難しくて打開の糸口が見い出せないものもあるし、研究を進める中で別な視点から研究した方が良いものなどが判ってきます。しかし、これはやってみなければ判らない、ある程度やってみて初めてそのテーマの難しさ妥当性が見えてくるものです。また、その時点で別なアプローチが良ければ果敢に方針変更する勇気も必要です。そして、それまでの成果をまとめ、より目標設定に近いテーマにチャレンジする、研究にはこのようにダイナミックな取組みが要求されます。勿論、研究によってはどんなに難しくてもチャレンジすべきテーマもあります。この判断は研究者のセンス、研究マネージャのマインドによる所が大きく、まさに試練の繰り返しです。

(5)国際的な研究交流の推進
 国際的なレベルで研究交流を行うと研究活動に役立つことが多く、文化、言語や慣習などの違いが研究の進め方、知見などにバラエティをもたらし、これがわれわれの研究に良いインパクトを与えることになります。交流の仕方としては、分野の相互補助的な研究分担やポスドク、大学院学生などの受入などがあります。  たとえば画像認識技術をとりあげて見ます。私達は人物像の認識を対象としています。しかし自然界や別の対象の認識技術の研究を行っている研究者と研究分担をすることで、人物像とは別の対象の認識技術の知見が私達の手元に入り、これが研究に大いに役立ちます。また、受け入れた外国の大学院生を交えた研究でも、テーマ討論などで、別の視点からの見解が示されることが多く、このことが大いに刺激材料になります。このように国際的な研究交流の促進が、研究所の人間を刺激するだけでなく、研究成果の構築にも大いに役立つことになりました。

3.主要な研究成果


 通信ソフトウェアの自動作成

ソフトウェアの開発においては、仕様が不正確なまま下流工程に進み、下流工程で膨大な手戻を生じている。開発の初期段階でできるだけ正確な仕様に仕上げることを狙いとし、さらに非専門家とのインタフェースまで考慮した上流工程における正確な仕様の獲得のテーマに世界に先駆けてチャレンジした。

●設計情報の蓄積と再利用

ソフトウェアの保守に必要となる、設計時のノウハウを蓄積し、再利用するための支援システムを開発し有用性を確認した。

●E-Rモデルにもとづくプログラム生成

対象とする世界の概念を直接記述し、それからプログラムを生成するシステムを開発し、従来手法に比べて4倍の生産性があることを確認した。

●通信サービス仕様記述言語

要求仕様記述の内部表現として、通信サービス仕様記述に親和性のあるプロダクションルールに基づく仕様記述言語STRを開発し、その有用性を確認した。

●図形による仕様記述とアニメーションによる確認

非専門家が要求を記述し、結果を確認できるよう図形による仕様記述とアニメーションによる結果の確認手法を確立し、28個のサービスについて記述実験を行い有用性を確認した。

●日本語による仕様記述

非専門家が記述し易い日本語による仕様記述を可能とするため、自然言語で記述された要求仕様をコンピュータが処理できる内部表現(形式言語)に変換する手法を開発し、有用性を確認した。

●要求理解
曖昧・断片的な要求仕様から完全な仕様を獲得するための、誤り検出・修正手法として、既存ルールとの照合、抽象モデルを用いたモデル推論、ペトリネットを用いた高速推論手法等を確立した。

●サービス競合検証
単独でサービスを提供する場合には問題がなくとも、他のサービスと同時に提供する場合には異常な振る舞いをする場合がある。このため、異なるサービス間の仕様の不整合を検出し、修正を支援する手法を確立するとともに、国際会議に本手法を提案し高い評価を得た。

●プロトタイプシステム概要

自然言語と図形を用いて記述された要求仕様からC言語のプログラムを生成するプロトタイプシステムを構築し、要素技術の有用性を検証するとともに従来の手法に比べて、生産性が4倍になる事を確認した。

●国際会議

1995年10月、国際会議(IEEE第3回フィーチャインタラクションワークショップ)をATRに誘致し、研究成果をアピールして高い評価を得た。

 臨場感通信会議への知能処理応用

遠隔地にいる会議参加者が一堂に会している感覚で会議をしたり、共同作業を行うことができる会議環境である「臨場感通信会議」の実現を目指し、臨場感表示、人物像処理、協調作業環境、画面データベース等の要素技術の研究を進め、所期の成果を得た。本テーマでは、人間にとって自然な考え方、やり方でシステムを利用できることを目指し、言葉、手振りによる3次元物体の操作、生成などの成果を得た。

●言語指示と指差し動作による地図案内システム

位置関係の指示語を対象に、人間にとって使いやすい自然言語の指示語における曖昧性を考慮し、たとえば「右」という指示語に対応する位置を数値に変換する技術を考案した。この技術により、言語による位置指示に基づいて、画像上の指示された対象を同定し、地図画像が対象に関して持っている情報を表示出力できることを確認した。

●マルチレベルオントロジーによるイメージの可視化
本研究は、人間が頭のなかで思い描くメンタルイメージを、日常の表現手段である自然言語や手振りを利用して可視化する手法に関するものである。自然言語による表現を2レベルオントロジーと呼ぶ概念と形状に関する2つの知識体系を利用して解釈する手法を提案し、一般的な基本形状の組み合わせで表現することにより、最終的にはそれら基本形状に対応するグラフィックスコマンドのレベルまで翻訳するメカニズムの有用性を確認した。更に、手振りによる補助的な表現を可能とした。

 臨場感通信会議のための画像処理等の信号処理

「臨場感通信会議」実現のため3次元画像を対象に要素技術の研究を進め、眼鏡無し立体表示、画像処理による手振り認識、実時間人物像の認識・合成などの成果を得た。

●非接触視線検出
顔と瞳孔の3次元空間位置をアクティブカメラで計測し、眼球の回転中心と瞳孔から視線を検出するアルゴリズムを考案し、機器非装着の高速、高精度な視点・視線検出技術を確立した。

●実時間手振り認識

手の重心等、画像から安定して得られる特徴による手の位置・姿勢および各指の曲げ認識アルゴリズムを提案した。3台のカメラによりオクルージョンなく、パイプライン型の画像処理装置を用いて、毎秒約10回の手振り検出を実現した。

●実時間衝突検出

効率的な階層的空間分割法を考案することによって、3次元空間内の衝突面を実時間で検出する技術を確立した。複数の複雑な一般形状の物体が変形しながら自由に運動する環境で、物体の衝突する面の組を特定でき、4000ポリゴン程度の物体同士の衝突面を約70ミリ秒程度で、検出できることを確認した。この結果を、仮想空間の物体操作の高度な支援などに利用することができる。

●視点追従眼鏡無し立体表示

従来の観察位置が固定されていたレンティキュラ方式に対し、観察者の視点検出機構と投影画像の拡大・縮小および左右移動機構を設けた視点追従眼鏡無し立体表示を考案した。75インチ大画面スクリーンおよび高精細投影光学系を設計・試作して等身大の人物表示を実現した。

●力覚フィードバックと小型ディスプレイによる仮想物体操作

超音波モータを用いた力覚フィードバック装置を開発するとともに、小型ディスプレイと組み合わせ、仮想世界での高精度作業インターフェースを実現した。本装置により、ユーザーは遠方にある物体をあたかも面前にあるかのように操作できる。力覚フィードバックによる操作反力は、重量や材質、衝突といった不可視情報を提示し、操作性の向上に寄与している。

●人物像実時間生成

会議参加者の表情と体の動きを検出して、顔だけでなく、上半身も含めた3次元人物モデルにおいて、高速の汎用グラフィックスワークステーション上で、約6フレーム/秒の速度で検出された表情と動きを再現するシステムを実現した。

●マーカ不要の顔表情検出・再現
従来、実時間表情検出のために顔に貼付していたマーカを不要とする表情検出法として、DCT(Discrete Cosine Transform)を利用する手法を開発し、24フレーム/秒の処理速度での正確な表情検出を実現した。また、リアルな表情再現のために種々の表情表出時の顔の3次元形状計測結果に基づく新たな再現法を開発し、任意の表情を20フレーム/秒の速度で再現できることを確認した。

●3地点間実験システム
要素技術の研究成果を組み合わせ、「臨場感通信会議」の総合評価を行うとともに、提案システムを多くの人が体験できる場を提供するため、3地点を結んだ実験システムを構築した。

 本システムは、人工現実感による仮想空間を複数の人間が共有して協調作業を行える例としては、世界初である。なお、本システムは、1994年9月に京都国際会館の展示会場と会場から約40km離れたATR研究所内の2つの部屋の計3ヵ所を1.5Mbps 1回線で結んでの実演が行われ、その有効性が確認された。

 セキュリティ

通信網のオープン化により、企業や個人の大量のデータが通信システムを介して伝達・蓄積・処理されるようになってきた事に鑑み、企業機密やプライバシーの漏洩・改ざんを防止する手法について研究し、暗号化アルゴリズム、データベースへのセキュリティ設計支援システムを開発し、その有用性を確認した。

●セキュリティ設計支援

データベースのセキュリティ設計支援システムとして、アクセス要求と機密要求が与えられた時に両者を満足するアクセス制御データを自動生成する手法を確立した。

●ストリーム暗号方式

画像情報の特質を考慮した、安全で効率のよい暗号アルゴリズムとして、非線形シフトレジスタ形のストリーム暗号方式を確率し、非常に効率が良い事を確認した。

4.研究のまとめと今後への期待


 この試験研究も関係各位のご協力により、数々の成果を挙げ予定通り終了することができました。
この研究では、試験研究の当初は、未開発であった技術が開発され、具体的な姿を現してきました。これらの最先端の技術が生み出された結果、学術的にも大きな役割を果たすことができました。
 たとえば、ソフトウェアの自動作成の先進的研究が契機となり、1993年1月に電子情報通信学会に「通信ソフトウェアの新しい方法論」に関する時限研究会が発足し、わが研究所はこの中で大きな役割を果たすことができました。また臨場感通信会議システムのプロジェクトについては、IEEEのRO-MAN(ロボットと人間のコミュニケーションに関する国際会議)、ACCV(アジア地域のコンピュータビジョン国際会議)などで主導的役割を果たしました。皇太子殿下ご夫妻のご来臨をいただいたITU全権委員会議(京都開催)の電気通信展での臨場感通信会議実験システムの展示もエポック・メーキングな出来事でした。本研究で得られた新しい概念や、それを実現する要素技術は今後、学術的にも産業応用的にも大きな役割を果たしてゆくものと思います。これらの数々の要素技術は、将来の高度情報社会の構築に貢献するものと期待しております。
 さらに本研究を発展的に展開し、新分野を開拓することを目的に、1995年3月に設立された(株)エイ・ティ・アール知能映像通信研究所に対しても、引き続きご指導ご鞭撻たまわるようお願いいたします。
 最後に、この10年間変わらぬご支援をいただいた基礎技術研究促進センターおよび出資企業の関係者の皆さん、ご指導いただいた内外の諸先生方はじめプロジェクトの関係各位のみなさんに深甚の謝意を表し、ご挨拶といたします。

プロジェクト概要

試験研究期間:1986年4月〜1996年3月(10年間)
試験研究費総額:167億円
研究員:延べ190名


コラム