コラム


研究立ち上げ時の思い出
10年前「光電波通信の基礎研究」のサブテーマとして選ばれた「光衛星間通信」の研究に着手した時、参考文献も(特に日本には)ほとんどなく、最終的なシステムのイメージは比較的はっきりしているものの何から手を付けるべきか、手探りの状態が続いたことは今でもよく覚えています。とりあえず、半導体光源の調査結果と回線設計をまとめヨーロッパの国際会議で発表した論文が(まったく)意外にも好評であったため少し自信を持ち、その後は通信総合研究所から来られた荒木さん(現同所宇宙技術研究室長)を始めとする文字どおり産・官・学の優秀な研究者に恵まれて何とか研究を軌道に乗せることができたと考えています。

元 無線通信第一研究室 室長 安川 交二
(現 国際電信電話(株)グローバルマルチメディア推進室 担当次長〕




通信用ディジタルビームフォーミングアンテナの実用化
DBFアンテナの研究開始当時は、学会のアンテナ研究会で発表すると「ディジタルビームって電波がディジタルで出ていくんですか?」などと質問を受けたが、DSPを用いた通信用の16素子フェーズドアレーの開発までこぎつけ、東京工業大学の後藤尚久教授からも「DBFはものになりそうだね」と言われるまでに成長した。その後の研究員のみなさんの努力により、適応化アルゴリズム、さらにASICを用いた小形化も実現し、通信用として実利用の道が開けた。実用化に向けた今後の課題としては、数の多いAD変換器の小形・低消費電力化やLO信号の分配方法、それからコストも含めた適用システムの問題が挙げられる。

元 無線通信第一研究室 主任研究員 中條 渉
(現 郵政省通信総合研究所 企画部 主任研究員)




ハマチの目!?
「東京の人は生き馬の目を抜く様な事をするから気を付けなさいよ」、との母の忠言を振り切って駆け落ちした東京の女性が現在の女房である。今も苦労が絶えない。さて、生き馬の目ではないが、我々はハマチの目を抜いて実験台に固定し、3Dレーザマイクロビジョンの医療機具への応用を考えてみた。最近、近視の治療法として、角膜の表面をエキシマーレーザで削って矯正する手術がある。500ミクロンある角膜を100ミクロン程度削る。しかし、エキシマーレーザは女心と秋の空どころでない。非常なお天気屋で、経験的データから照射時間を定めている現在、レーザがヒステリーを起している日に出喰したら正しく目もあてられない。そこで、3Dレーザーマイクロビジョンのプローブ光をレーザメス光の中に忍び込ませ、削り量を測定しながら手術する方法を思い付き、ハマチの目をくり抜いて実験台に使った次第である。やっている内に、図のような構造が浮かび上がった。屈折率が周期30ミクロン程度の鋸の刃状になっている。表面反射を防ぐための神の造形、もしくは自然の神秘をマイクロビジョンが暴いたのか、それとも既知の事実か。眼科の専門医に尋ねてもハッキリとした答が頂けない。結論が出ないうちが花なのかもしれない。
招聘研究員 トロント大学教授 飯塚 啓吾




高周波回路小型化技術の研究
「次世代移動体通信基盤技術」の要素技術として、腕時計レベルの超小型携帯機等の実現に向けたMMICの研究を発足時からスタートした。その具体的な研究企画の段階では、他に類のない独創性、高い効用のある将来性、および学術的ならびに産業界への大きなインパクト、の三つの視点から当時の限られた数人で検討を重ねて、「3次元MMIC」を世界に先駆けて取り上げた。これと並行して考案した「線路一体化FET(LUFET)」は、その斬新なコンセプトが認められて「IEEE Microwave Prize」を受賞したことは大変幸運であった。現在、LUFETは応用が着実に進みつつあると共に、3次元MMICは1チップ送・受信機の実現ができるレベルまで、さらにはミリ波ファトニクス技術へと大きく展開しつつある。研究所発足時の関係者の一人として大変喜ばしい限りである。

元 無線通信第二研究室 室長 相川 正義
(現 日本電信電話(株)ワイヤレスシステム研究所 主席研究員)




幻の研究所−ATRツイン21
私がATRに赴任したのは10年前の1986年3月、まだツインビルもオープン前の時で、研究所とはいえオフィスビルの部屋に机と電話があるのみ、ここでどんなデバイス・材料の研究をやれるのかと不安でした。通信デバイス研究室は最初私一人で、光素子と計算物理のテーマで人集めから研究計画立案、役所対応など目の回る忙しさでした。そのうち研究者も増えてきましたが、ハードの研究には測定機器や材料処理のための実験設備が欠かせません。西日本一の最新のオフィスビルのなかにドラフトなどの特殊設備を入れるという一見無理なこともビル側の理解により可能になり、実験室の設備が進んで実質的に研究を始められたのですが、これらの具体的研究の実績が新研究所の設計に役立ち、また現在のATRに受け継がれていることを思うと皆の努力も報いられるのではないでしょうか。このほか計算物理の立ち上げや新研究所の建設など思い出は山のようにありますが、きつい仕事も、少人数の家族的繋がりと(当時はATR全体で週1回夜に社長などと一緒にテニスを楽しんだりしました)、何ごとも初めてで自分たちが途をつけるというやりがいに支えられ、結構楽しい日々を送ることができました。ツインビルからの引っ越しの日に、光電波全員で寄せ書きをしました。私は「燃えつきた青春」と書き、皆からひやかされましたが、今から考えてもその思いがします。今はそのツインビルに跡形もない「幻の研究所」、それは間違いなく現在のATRのなかに生き続けています。ATRのますますの発展をお祈り致します。

元 通信デバイス研究室 室長 藤本 勲
(現 日本放送協会 放送技術研究所 研究主幹)