ATR10年の歩み

−関西発ATR便 離陸から水平飛行へ−



(株)国際電気通信基礎技術研究所 代表取締役副社長 吉田 匡雄




はじめに

 ATRが産声をあげてから既に10年が過ぎました。
 ATRが設立され、僅か42名の人員でスタートした時には、正直言って将来どんな姿になるのか、具体的なイメージが頭の中にはっきりと描けなかったというのが、当時を振り返っての私の実感であると言えましょう。それが今10周年という1つの節目を迎え、設立の時に発足した4つの研究開発会社がそれぞれの研究活動を終了し、新たな4つの研究開発会社が発足して、目標達成に向け立派に研究を開始している姿を目の当たりにして、感慨無量の想いがいたします。これもATRの研究に携わった方々、またそれらを支えられた方々の真摯な努力に依るものであると同時に、ATRに寄せられた各界からのご支援・ご指導の大きさをひしひしと感じます。
 この機会にATRの10年の歩みを振り返ることは、これからのATRを引き続きご支援をいただく方々に何かのご参考になればと考え、このジャーナル特集号を皆様にお届けする次第です。

1.ATR設立時の背景

 我が国の研究開発の特色は、主として欧米諸国から先端的な科学技術を導入し、その技術を改良・製品化することにより、世界一流の技術水準に到達した応用研究にあったと言われています。しかし今後とも我が国がその活力を維持し安定的発展を遂げていくためには、創造性に富む基礎・先端技術の研究を強化することが最も必要であり、またそれが経済力が豊かになった我が国の国際社会での責務でもあります。特に電気通信は将来の高度情報通信の根幹を担うものであり、その研究の成否がその実現の重要な鍵を握っていると言えましょう。
 我が国の電気通信分野の研究開発は、これまでもNTTの電気通信研究所、KDD研究所、NHK放送技術研究所、郵政省の通信総合研究所等の公的・準公的研究機関、民間企業、大学等で活発に行われ、そのレベルは世界一流の域に達して来ていました。しかしながら基礎・先端研究の更なる強化の為には、産・学・官が協力してその技術力の結集をはかることが、重要であるとの認識が高まっていました。

2.基盤技術研究促進センターの設立


 上述のような背景の下で、1984年電電公社の民営化を柱とした新たな電気通信制度が検討された際、民営化に伴い政府に無償譲渡される新会社の株式より生ずる売却益及び配当金の使途が議論されました。
 郵政省は将来の電気通信の発展のために活用すべきであるとして、基礎技術の研究推進を図る目的から1985年度予算で、「電気通信振興機構」の設立を要求しました。一方、通産省も同種の研究開発支援組織として、「産業技術センター」の設立を要求しましたが、予算折衝の過程で両者の要求に代えて、郵政省・通産省共管の新法人を設立することで決着を見ました。新法人に対しては、NTT株式の政府保有義務分(全株式の1/3)が所管される産業投資特別会計から、出資・融資が行われることになりました。
 この新法人は、政府の特別認可法人(基盤技術研究促進センター(Japan Key Technology Center略称KTC:以下KTC)」として、「民間企業において行われる基盤技術に関する試験研究の促進に関する業務を行う」ことを目的に1985年10月設立されました。これにより従来我が国が相対的に手薄であったとされ、且つ大きなリスクを伴う基礎・先端研究の支援制度が民間活力を生かす方向で整備されました。
 KTCの出資事業は、「民間において行われる基盤技術に関する試験研究に必要な資金に関し、期間を定めて出資を行う(KTC業務方法書)」もので、出資の相手方は「基盤研究または応用研究段階から実施する試験研究」等を行うことを主たる目的として「2つ以上の企業等が出資する法人」となっています。また、「試験研究に必要な資金の7割を限度として出資(KTC出資細則)」が行われます。KTCからの出資の上限が7割であることから、残りの最低3割は共同で研究する民間企業が出資することになります。出資の期間は「7年以内、ただし、特に必要と認めに場合は10年以内(同細則)」となっています。
 以上の内容からわかるように、KTCからの出資を受けるこれら研究開発会社は、その原資が政府の産業投資特別会計から出てきて、出資が株式取得の方法で行われるため、株式会社組織で基盤技術の試験研究を実施していくというユニークな形態となっています。

3.(株)国際電気通信基礎技術研究所の設立

(1)設立の目的

 高度情報社会の実現に向け、将来の技術革新の芽となる創造的基礎研究の重要性が強く認識される状況を踏まえて『(社)関西経済連合会は、時代の先端を行く大規模な「電気通信基礎技術研究所」を、KTCからの出資を得て関西文化学術研究都市内に設立することを企画し、同研究所設立準備会(後述)を設置し検討』を進めていました。
 このような背景をもとにATR設立の目的は、次のように集約されました(1986年1月の設立準備会)。
(a) 基礎研究の充実
我が国が今後も活力を維持し発展していくためには、技術革新の芽となる基礎研究を充実し、基礎・先端技術の開発力を強化することが必要である。
(b) 電気通信分野に於ける基礎的・独創的研究の推進
電気通信技術は21世紀の高度情報社会の基盤をなすものであり、人間科学、情報科学、光電波科学、物性科学等電気通信に関する分野について幅広く基礎的・独創的研究を推進する。
(c) 産・学・官共同研究の場の提供
産・学・官の共同研究体制を確立し、知的資源の有効活用を図るとともに、開かれた研究所として研究交流を促進する。
(d) 国際社会への貢献
電気通信分野の国際性、我が国の国際社会への貢献という観点から、研究開発面における国際協力体制の確立を図る。
 その後、より一般的な内容を持つ項目(a) を(b) に吸収した3項目に関西文化学術研究都市内への立地の具体化に伴って「関西学術研究都市における中核的役割」を新たに加えた4つが現在のATRの基本理念となっています。


ATR(Advanced Telecommunications Research Institute)は、ATRグループ総称であり、(株)国際電気通信基礎技術研究所(通称ATR-I)と4つの研究開発会社(発足当初)

 ・(株)エイ・ティ・アール通信システム研究所
 ・(株)エイ・ティ・アール自動翻訳電話研究所
 ・(株)エイ・ティ・アール視聴覚機構研究所
 ・(株)エイ・ティ・アール光電波通信研究所

で構成される。


(2)設立準備会の発足
 関西では、京都・大阪・奈良の3府県に跨がる丘陵地帯に関西文化学術研究都市を建設する構想が進められていましたが、この構想の具体化を促進するための中核施設としてのATRの誘致活動は、前述のように、特に(社)関西経済連合会(以下関経連)を中心として進められました。
 関経連ではATRの設立計画を具体的に進めるための臨時・特設組織として、大学、関経連主要会社、NTT、KDD、NHK、郵政省に通信関連メーカー等の参加を得て、1985年3月「電気通信基礎技術研究所設立準備研究会(座長:熊谷信昭大阪大学総長=当時)」を設立しました。
 更にその検討結果を踏まえて、会社設立準備、研究所マスタープラン、建設計画等の検討を行いKTCに対して出資申請を行う母体として、「国際電気通信基礎技術研究所設立準備会(会長:稲山嘉寛経団連会長=当時、会長代理:日向方齋関経連会長=当時)」が1985年10月に設置されました。同準備会は学者、経済団体、NTT、KDD、各種団体の代表、地方自治体等からの25名の委員で構成され、準備会の下に技術的事項を検討するための技術委員会(委員長:長尾真京都大学教授)及び事務局が置かれました。
 具体的な準備作業は事務局の下に設置された技術事務所・東京事務所・大阪事務所に分担され、特に技術事務所では主として大学助教授と企業の研究指導者層を中心とするワーキンググループを組織し、技術委員会の指導のもとにマスタープランの作成を行いました。
結果...
●知的通信システムの基礎研究
●自動翻訳電話の基礎研究
●視聴覚機構の人間科学的研究
●光電波通信の基礎研究
の4テーマを取り上げるのが適当であるとの結論が得られました。


ATR設立準備会の組織図


(3)(株)国際電気通信基礎技術研究所と4研究開発会社の設立
 このような経緯を経て、1986年1月に前述の4つのテーマをKTCの出資募集に応募し、認められるところとなりました。
 これらの準備を踏まえて、先ず100%民間資本の(株)国際電気通信基礎技術研究所(以下ATR-I)
が1986年2月の設立発起人会、同3月20日の設立総会で設立されました(実際の設立日は登記の関係で3月22日)。約1ヶ月後の4月26日、ATR-Iを核として、NTT、KDD、NHKはじめ多くの民間企業との共同提案により、KTCからの出資を得て

(株)エイ・ティ・アール通信システム研究所(研究費総額167億円 研究期間10年)
(株)エイ・ティ・アール自動翻訳電話研究所(研究費総額166億円 研究期間7年)
(株)エイ・ティ・アール視聴覚機構研究所 (研究費総額137億円 研究期間7年)
(株)エイ・ティ・アール光電波通信研究所 (研究費総額166億円 研究期間10年)
の4つの研究開発会社(以下R & D)を設立しました。


(株)国際電気通信基礎技術研究所設立総会

 ATRの設立形態は当初1つの組織体、即ち電気通信基礎技術研究所として計画されましたが、ATR構想とKTC出資制度の具体化が併行して進んだこともあり、出資に限度額が設定されたため、特定プロジェクトの研究を行う4つのR & D会社と、このR & D会社に対し物的・人的・資金的支援を行うと共に、総合的研究推進事業を行うATR-Iの5社体制となりました。ここではこれらの総体をATRと記述します。KTC出資の限度とは、1つのプロジェクトに対し「出資を行うことのできる限度額は、KTCの全残高の1割以内とする(KTC出資細則)」、また、出資対象となる試験研究に必要な資金から「土地取得・造成費を除く」とするものです。
 下にあるATRの組織図に示すように、ATR-Iの4つの部がそれぞれ独立して4つのR & D会社を形成しています。これにより、ATRは運営面からは実質的に1つの組織体として機能していると言えるでしょう。


ATRの組織図

4.10年の歩み

(1)会社のスタート

 ATR-I設立後の1986年4月1日に、大坂城横のツインビルに入居しました。ツインビルの正式オープンは確か4月11日と記憶していますが、ATRはその前に入居させていただく等何かと便宜を図っていただきました。これも当時の大阪大学総長熊谷先生他関係各位の盡力によるものと承っています。
 その日の入社式は総員42名で、R & D会社はまだ設立されておらず全員ATR-Iの籍でスタートしました。4月末に4つのR & D会社が設立され、株主企業のご理解とご協力により9月頃から順次出向者の受入れが始まり、1年後には約130名の規模(研究員約110名、事務職員約20名)になりました。その後各R & D会社の社長、室長の努力により、株主企業の協力も得て研究員は段々と増加、加えて客員研究員の受入促進もあり、現在の関西文化学術研究都市にある新研究所棟に移転する1989年度初めにはプロパー研究員8名、出向研究員約150名、客員研究員約20名の体制となりました。
 各出向元企業のご理解とご配慮により、これら初期の研究員として大変優秀な方々に参加していただけたことで、それ以後のR & D会社の研究が順調に滑り出して、今日のこの姿になったものと大いに感謝している次第です。

(2)出資協力依頼
 ATR設立に当たって、ATR-Iの資本金及びR & D会社への民間出資分(30%)の確保について、設立準備会で次の如く方針が決められました。
 出資依頼方針...
●依頼先は、発起人、設立準備会技術委員の各社、関連業界の有力会社、関西の主要経済団体の役員会社とする。
●ナショナルプロジェクトとして広く出資協力を求めるため、原則として出資依頼は1件最高3億円、最低1千万円とする。
●原則として出資はATR-Iは5年間、R & Dは11年間にそれぞれ分割し、払い込むものとする。
●出資依頼総額はATR-Iの資本金分200億円とR & D会社への民間出資分132億円、合計332億円からNTT承諾分200億円を除く132億円とし、出資各社のATR-IとR & D会社への出資比率は約60:40とする。
 この方針に従って、設立に必要な出資額については、準備会の大阪事務所を中心とするメンバーの努力により出資承諾が得られました。それ以外の残りの分については、関経連の強力なサポートを得ながらATR-Iが出資依頼を行いました。以上の方針による出資依頼を180社におよぶ会社に対して行い、ほぼ1年で130数社からの承諾を得て目標に到達しました。しかしこの計画ではATR-IのR & D会社への出資額が60億円以上にのぼり、将来ATR-Iの経営基盤に深刻な影響を与えることを憂慮して、20億円の追加出資協力を新たな10数社にお願いし、更に1年余りを費やして目標額に達しました。
 1995年3月現在、ATR-Iの資本金は220.4億円、内NTTの出資分は125.2億円(56.8%)であり、ATR-IはNTTの子会社となっています。また、4R & D会社への出資総額は635.8億円、内KTCからの出資445億円、民間出資190.8億円(NTT74.8億円、ATR-I59.4億円、それ以外の民間138社56.6億円)となっています。

(3)新研究所棟建設
 ATRが関西文化学術研究都市の精華・西木津地区に立地するについて、計画の段階では数ヶ所が候補に上がっていましたが、住宅・都市整備公団(以下、住都公団)がこの地区の土地整備事業を行うに当たり、住都公団と郵政省との話し合いが持たれた結果、ATRを公団の整備地区内の具体的な立地施設として大蔵省に予算要求を行い現在の場所に立地することになりました。
 設立準備研究会では土地は20万m2の予定でしたが、設立後の諸情勢の変化(土地代の値上がりとATR-Iの資本金の使途計画から見て、20万m2の取得は過大な資金負担となること等)から、公団との土地代折衝の段階で11.4万m2に縮小し、残余の分については公団からNTTに売却されることになりました。土地の価格交渉は、折からの土地高騰の兆しが見え始めた頃で、今後、進出予定の他の民間研究所の価格交渉に与える影響も懸念され、郵政省の支援を得ながら難行の末、総額67.7億円(59,400円/m2)で造成に合わせて3期に分けて引渡されることで決着を見ました。
 研究所の建設に当たっては会社設立当初より、設計監理をNTT都市開発(株)、(株)日建設計、(株)日本総合建築事務所の3社に依頼し、学研都市第1号として他の進出予定の研究所のモデルとなるよう、検討を重ねていただきました。研究室以外のコミュニケーションの場、触れ合い空間、パーソナルな研究居室環境、緑豊かな外部空間などがその特徴で、日々快適な研究生活が営まれています。建設は建築工事、電気工事、空調・衛生工事毎にジョイントベンチャー(JV)を組んでもらい競争入札を実施し施工することになりました。
 1987年7月7日に起工式を行い、1年8ヶ月後の1989年(平成元年)2月28日に竣工式を行うことが出来ました。このように短期間に無事故・無災害で完成を見ましたのは、周辺住民の皆さまへの配慮から住都公団のご支援で現在の木津川台団地に抜ける仮設道路を開通させていただいたこと、また施工各JVの献身的な努力によるものであったことを特に申し述べ、お礼を申し上げる次第です。
 ツインビルからの引越しは約1年前からプロジェクトチームを編成、周到な計画と準備を進め、中型トラック延べ350台の約1ヶ月半にわたる大掛かりな作業となりましたが、無事に1989年3月末までに完了、4月1日に開所することができました。5月30日には各界の著名人の出席を得て開所披露式を挙行、5月31日、6月1日の両日一般の方々に公開し約4,000人が見学に訪れました。

新研究所棟竣工式

(4)テレコム・リサーチパークの指定
 1987年度補正予算による民活法特定施設整備事業に対する補助金を受けるため、ATR-Iの研究所の整備計画を民活法(民間事業者の能力活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法)の特定施設であるテレコム・リサーチパーク(電気通信研究開発促進施設)として郵政省に申請していましたが、1987年7月23日に認定を受けることができました。補助金は国(郵政省)から事業費の5%の2/3が交付され、残り1/3は地方公共団体から交付されますが、出資の形をとることも可能で、ATR-Iの場合は京都・大阪・奈良の3府県と協議の結果出資していただくことになりました。補助金の対象は建物建設・建物内据付けの機械設備取得等(土地取得・造成を除く)の経費で、ATR-Iの場合下表のとおりとなっています。
 また3府県からの補助金が出資となったことから、ATR-Iは地方公共団体から出資のある第3セクターとなり、「NTTの株式売却収入の活用による社会資本の整備促進に関する特別措置法」(1987年9月4日公布施行)に基づく日本開発銀行の無利子融資制度が利用できることとなり、借入れを行いました。借入額は事業費の37.5%以内に相当する29.9億円、借入期間15年、3年据置、12年均等償還という条件になっており、ATR-Iの経営にとって大いに寄与したことになります。
 また、1987年6月に関西文化学術研究都市建設促進法が制定され、ATR-Iもこの法律の適用を受けるべく、1988年12月に国土庁長官宛に同法に規定する研究所用施設であることの証明を申請し、1989年1月27日同長官から証明されました。これにより下表のごとく、税制上の優遇措置を受けることができ、これもまたATR-Iの経営に寄与することになりました。

(5)天皇陛下御一家のご視察
 1991年5月26日(日)、天皇・皇后両陛下におかれては、京都府宇治市で開催された第42回全国植樹祭にご出席になられた後、ATRをご視察になられました。概要説明を受けられた後、視聴覚機構研究所で神経回路網による手書き文字認識実験や自動翻訳電話研究所での日本語の話し言葉を自動的に英語の音声に変換する実験を天皇陛下自らご体験になり、先端技術の開発の一端に触れていただくことができました。
 秋篠宮、同妃両殿下は関西文化学術研究都市の交流施設として建設された「けいはんなプラザ」の完成記念式典へのご出席に先立ち、1993年4月26日(月)、ATRをご視察、日本人の英語R・L音の聞き取り能力に関する研究成果、臨場感通信会議の実験をご覧になられました。
 ITU(国際電気通信連合)全権委員会議が、国立京都国際会議場で1994年9月19日(月)から開催されましたが、会議初日の開会式にご出席された皇太子、同妃殿下はその直後会場で開催されていた電気通信展をご視察になり、ATRブースでは最新のバーチャルリアリティ技術の臨場感通信会議をご体験になられました。
 このように3回にわたって、天皇陛下御一家のご視察を賜り、最先端の独創的研究の内容をご体験いただき、研究成果の実用化にも深い関心を寄せられたご様子でありました。私共としてこのことを大変光栄に存じ、今後の研究活動に一層精励しご期待に応えることを肝に銘じている次第です。


天皇・皇后両陛下のご視察

(6)新会社設立
 1992年はATRがスタートして7年目に当たり、ATRの4つのプロジェクトの内、7年間のプロジェクトの「視聴覚機構の人間科学的研究」と「自動翻訳電話の基礎研究」の2つが最終年度になりました。
 基礎研究を続けるATRの次のステップとして、新しいプロジェクトをスタートさせるべく準備を進めてきました。引き続き基盤技術研究促進センターの出資制度を利用すべく、1991年より産・学・官が一体となっての技術的検討を重ねた結果、1991年9月にまず最初の「ヒューマンコミュニケーションメカニズムの研究」を行うプロジェクトの出資希望書をセンターに提出、認可を受けて、1992年3月26日に(株)エイ・ティ・アール人間情報通信研究所を設立し研究を開始しました。2001年2月に終了する9年間、研究費総額160億円のプロジェクトで文字通り「21世紀の扉を開く」プロジェクトです。続いて同様の過程を経て、1993年3月25日に「高度音声翻訳通信技術の研究」を行う(株)エイ・ティ・アール音声翻訳通信研究所を設立し、2000年2月に終了する7年間、研究費総額160億円の研究プロジェクトを開始しました。
 10年間のプロジェクトとして設立した2つのプロジェクト「知的通信システムの基礎研究」と「光電波通信の基礎研究」は、1995年が最終年度に当たります。引き続き新しい視点から21世紀を睨んだ基礎研究を行うということで、数回にわたって、産・学・官の関係者による研究技術会議を開催し検討を重ねました。
 1994年9月に「知能映像情報通信の基礎研究」を行うプロジェクトをセンターに提出、認可を受けて、1995年3月28日に(株)エイ・ティ・アール知能映像通信研究所を設立し研究を開始しました。2002年2月に終了する7年間、研究費総額123億円のプロジェクトです。同様の過程を経て1996年3月27日に、「環境適応通信の基礎研究」を行う(株)エイ・ティ・アール環境適応通信研究所を設立、2003年に2月に終了する7年間、研究費総額119億円のプロジェクトがスタートしました。
 これによりATRの新しい4つのプロジェクトが揃って、21世紀に向けて力強く羽ばたいてテイクオフしたことになります。これら4つの研究開発会社発足に際し、大変なご協力、ご支援をいただいた関係各方面の皆様、なかんずく不況下にもかかわらず、ご趣旨にご賛同いただき出資協力を賜りました株主企業の皆様に、厚くお礼申し上げる次第であります。
 試験研究期間を終了した4つのR & Dについては、試験研究成果を管理する会社として存続し、技術情報等の開示、特許権等の実施許諾を業務としています。またこれら研究成果の普及のために、1993年4月にATR-I内に開発室を設置し、積極的な成果普及支援活動を行ってきております。

(7)人材育成・交流
 ATRの基本理念の中に、産・学・官共同研究の場の提供と国際社会への貢献を謳っています。ATRのこの10年間をこれらの基本理念の展開として、人材育成・交流といった面から眺めてみることにします。
 電気通信関係の研究機能は、最近でこそ関西地区に研究所が設立される傾向が出てきていますが、それまでは殆ど関東地区に集中しておりました。当時、関東に次いで大学の集積の多い関西地区に中核的な研究機関を整備することが、人材の育成を目指す上からも、非常に重要であるとの認識から、学研都市にATRを設立することが切望されていました。また電気通信分野の基礎的研究は、開発リスクが大きく研究開発課題が高度化し、学際的課題が増加している状況を考えますと、産・学・官共同の場に於いて、それらを手掛けることが望ましいと思われます。
 こうした基礎研究を充実させるためには、何と言っても第一に人材の確保であり、それによる人材の育成が必要であります。また電気通信システムの利用は、その特性として国境を超越しており、今後我が国が先端技術によって発展していくためには、各国と協調して研究開発を進める必要があり、人材の国際的交流、例えば「海外の優れた研究者の招聘」「海外の研究機関との共同研究」などは欠かせない要素となってきています。ATRとしてこうした方向で人的な面での研究環境の整備をはかってきており、「各分野の優れた研究者を集め、学際的な交流をはかり、学際的分野の重要性を認識させる」「国内外の研究機関・大学との共同研究の推進」といったことを進めて来ており、これらが人が人を呼び、情報が情報を呼ぶという良い環境を生み出しています。

(8)情報発信
 前項で述べましたように、ATRは国内外に開かれた研究所として人材交流を積極的に進めている他に、「自由な国内外での論文発表の機会を設ける」「特許取得を支援する」「学位論文として纏めることを支援する」等情報発信についても強力に推進しています。これらが人材育成・交流と相乗効果を発揮し海外での認知度を高め、延いてはこの分野での我が国の国際的な地位向上に貢献し、情報発信源として、関西文化学術研究都市の知名度の向上に役立っていると考えています。
 情報発信として、学術論文、国内外の会議での外部発表は毎年国内が500件前後、国際が200件以上に達しており、それらによる国内外の権威ある学会等からの受賞も毎年10件前後に達しています。1995年10月に10周年を迎えたKTCの資料により、1994年3月末までに採択されたR & D会社64社の学会発表・特許出願件数の累計とATRのそれを比較すると右上表のようになり、学会発表件数は全体の約45.6%、特許出願件数は同じく約20%となっています。これを電気通信関係だけで見ますと、学会発表件数では約81.6%、特許出願件数では約49.1%とずば抜けてハイレベルな情報発信を進めています。
 1993年9月より、第一線の研究者を招き、その分野の最新の研究動向等を紹介し、先端研究情報交流の場を提供するATR科学技術セミナーを開催し、関西文化学術研究都市の第1号施設として地域活性化の役割も果たしています。1996年3月末までの開催回数は、延べ40回に及んでいます。また研究員の執筆によるATR先端テクノロジーシリーズとして、「自動翻訳電話」・「視聴覚情報科学」・「光衛星間通信」・「ニューラルネットワーク応用」の4冊を既に出版しており、「臨場感通信」も出版準備中です。

学会発表及び特許数(1994年3月末現在)


5.結び−今後への期待−

 あと僅か5年で21世紀を迎える今、20世紀から21世紀への大きな転換期にさしかかっています。
 私達が生きてきた20世紀は、「科学技術の時代」であったということができましょう。科学技術の発展は人間に大きな福利をもたらす反面、原子力の開放や遺伝子の研究、コンピュータの発達など使い方次第では個人や社会に損害を与え兼ねない面もあり、その反省として本来主人公であるべき人間にとってどうあらねばならないかという原点、即ち人間尊重の立場に立って考えるべき時ではないかと考えます。ATRの基礎研究が人間に学ぶことを基本にしてこの10年間やってきたこと、また新しい研究開発プロジェクトもより一層人間尊重の立場に沿った方向を採っていること等、時代の要請に応えるものと考えています。
 昨年11月科学技術基本法が成立し、その第5条には、基礎研究の重要性が書かれており、基礎研究に重点を置いた科学技術の振興の重要性が更に認識されるなど、この分野に追い風が吹いて来ています。こうした中で、ATRの研究開発が引き続き関係各界のご理解とご支援をいただきながら、順調に研究を進展させていくことを心から期待し、結びの言葉とします。


コラム