ATR創立10周年を祝して




科学技術会議議員・大阪大学名誉教授 熊谷 信昭



 関西経済連合会が中心となって建設計画が進められていた関西文化学術研究都市を具体的に立ち上げるために、その先導的役割を果たす中核施設として電気通信に関する基礎研究を行う大規模な研究所を関西学研都市内に設立する構想が浮上し、当時大阪大学工学部通信工学科の教授をしていた私のところに、日向方齋関経連会長や左藤恵郵政大臣から、この研究所の基本構想を検討する設立準備研究会の座長をつとめてもらいたいというお話が持ち込まれたのは昭和59年の秋頃のことであった。
 最初に私がうかがった話では、この研究所は、当時の日本電信電話公社を株式会社組織に民営化することにともなって政府が保有することになる株式の配当金を活用して、民間企業では行うことが難しい、リスクが高く、リードタイムの長い独創的・先端的な基礎研究を国の公的支援のもとに行うために設立しようとするものであるということであった。その話を聞いた私は、この設立の主旨に感動した。また、当時、電電公社の研究開発本部顧問をしていた私は、かねがね電電公社の研究所を関西にも作るべきであると主張していたし、国立や民間企業の主だった研究機関がほとんどすべて関東地区に集中しているのも不都合であると思っていたので、このお申し出を喜んでお引受けした。
 郵政省や関経連の事務方の方々をはじめ委員の皆さんの精力的なご審議を経て、約半年後には基本構想がまとまり、その後各方面のご関係の方々の非常なご努力によって、昭和61年3月にATRは目出たく発足の日を迎えた。
 しかし、〔けいはんな〕の現在地でATRの起工式が行われた頃は、まだまともな道路もない山林の真っただ中で、文字通り学研都市の尖兵という感があり、前途の多難を思わずにはいられなかった。
 また、この研究所の基本的な形態は、実際にATRが設立されるまでの間に、最初私が聞かされていた準国立研究所的なものから大きく変わり、「企業では行うことのできない基礎研究を行う企業」という、まことに奇妙なものとなってしまっていた。そのために、ATRが背負った責務と、その運営の難しさは並大抵のものではなかったであろうと思う。
 しかし、そのような矛盾をはらんだ困難な条件の下でATRは実によく頑張ったものだとただただ感嘆する他はない。わずか10年間にして、ATRは世界にその名を知られる、日本が誇る大研究所として見事な実績と評価を確立したのである。
 この複雑な形態の研究所がこのような成功を収めることができた最大の理由は、大勢の素晴らしい人材を集めることができたことであると思う。発足当初から今日まで、ATRには郵政省やNTTをはじめ関係企業からきわめて優秀な人材が派遣されてきた。これが、短期間に、日本を代表する研究所の一つである今日のATRを作り上げたのである。「すべては人である」ということを如実に示した典型的な成功例であるといえよう。
 ATRが創設されるにあたって期待されていたものは、電気通信に関する世界に誇り得るような独創的な基礎研究を国際的な視野のもとに推進するということであった。この10年間に、ATRは見事にこの期待にこたえてこられたわけであるが、今後ともこの研究所創設の崇高な理念を見失うことなくその使命を果たしていただきたいものである。
 今日までのATRの皆さんのご努力に改めて心から敬意を表するとともに、10周年を節目に今後益々のご活躍をお祈り申し上げてお祝いの言葉としたいと思う。