自律分散型無線ネットワークのための
エスパアンテナのリアクタンス
ドメイン信号処理
元ATR波動工学研究所
現 三洋電機株式会社
平田 明史
1.自律分散型ネットワークとエスパアンテナ
無線基地局やアクセスポイントを必要としない自律分散型無線ネットワークにおいて、無線リソースの管理は重要な課題となります。特に無線LANに基づくマルチホップ接続網では、無線リンク確立過程のキャリアセンスによって近隣の無線端末は実際に通信できない「さらされ端末」の状態となり、その結果全体のスループットが低下する現象が起こります。無線端末のアンテナが適応的に指向性ビームを形成する機能や可変指向性機能を備えていれば、「さらされ端末」問題は大幅に回避できると考えられます。さらに、可変指向性アンテナはビームを絞って電波を送受信するため通信距離の拡大や周波数有効利用、マルチパスフェージングの軽減等の利点もあります。可変指向性アンテナとしてアダプティブアレーアンテナやフェーズドアレーアンテナが広く知られていますが、消費電力や回路規模、コスト等の面から無線端末への搭載は積極的には進んでいません。
そこでATRでは、無線端末用可変指向性アンテナとして電子走査導波器アレーアンテナ(以降、エスパアンテナ)を提案し、様々な用途への実用化に向けた研究開発を進めてきました[1]〜[3]。図1は自律分散型無線ネットワーク用に試作したエスパアンテナです。エスパアンテナは図2のように中心に給電素子、その周辺に無給電素子を接近させて配置し、素子間相互結合によって指向性ビームを形成する空間結合型アレーアンテナです。無給電素子に装荷されたバラクタダイオードの印加電圧を制御し、リアクタンスを変化させて指向性を可変にします[1],
[4]。給電が1ポートのみであるため低コスト・低消費電力で可変指向性を実現できるという特長があります。一方で、受信信号が1ポートに限られるため制御が難しいという課題もありましたが、近年リアクタンスドメイン信号処理を提案し、ビームを切り替えて受信することによってDBF(Digital
Beamforming)アレーと同様の信号処理がエスパアンテナに適用できるようになりつつあります。
2.リアクタンスドメイン信号処理
リアクタンスドメイン信号処理(以降、RD信号処理)は同一の到来信号系列に対してビームを切り替えて受信することによって、複数の受信信号系列を取得する技術です。リアクタンスダイバーシチやリアクタンスドメイン空間相関、高分解能電波到来方向推定等に利用できます。
2.1 リアクタンスダイバーシチ
マルチパス環境においてはフェージングによって受信電界強度が落ち込む場所が発生しますが、ダイバーシチはこのフェージングによる受信品質劣化を回避する手段として有効です。ダイバーシチとして代表的なものは、複数のアンテナ素子を離れた位置に配置する空間ダイバーシチですが、リアクタンスダイバーシチは向きが異なるビームを切り替えて受信する指向性ダイバーシチの一種です。
また各無給電素子のリアクタンスを変化させるとビームパターンを変えることができるため、ビームパターン間の相関ができるだけ低くなるようにリアクタンスを調節し、ダイバーシチ効果を向上させることが可能です。給電素子1本とその両側に無給電素子2本を平面に配置すると3素子平面型でコンパクトなリアクタンスダイバーシチアンテナとなりますので、無線端末用アンテナとしての用途のみならず、薄型のデジタルテレビ内蔵用アンテナとしての用途も注目されています[1],
[5]。
2.2 リアクタンスドメイン空間相関
アレーアンテナにおける空間相関は複数の送信無線端末から到来する電波の分離識別度の指標となります。アダプティブアレーアンテナは各素子の受信信号に適当な重み係数を掛けることによって干渉信号を抑圧して所望信号のみを出力することができますが、空間相関は重み係数を計算する前に所望信号と干渉信号の分離可否が判定できます。エスパアンテナにおいてもビームを切り替えて複数の受信信号(以降、受信信号ベクトル)を取得することによって空間相関を計算することができ、これをリアクタンスドメイン空間相関(以降、RD空間相関)と呼んでいます。RD空間相関は自律分散型無線ネットワークにおけるエスパアンテナの適応ビーム形成可否判定基準となります。
また、マルチパス環境における受信信号ベクトルは送信側無線端末の位置によって変化する、位置の関数となります。予め屋内の送信無線端末位置と受信信号ベクトルを対応させた「位置検出プロファイル」を作成しておけば、実際の通信時に屋内の送信無線端末が受信無線端末の見通し外に位置していても、その位置が受信無線端末から認識できるため、送信無線端末の屋内位置検出手段として利用可能です。
さらに、屋内マルチパス環境における受信信号ベクトルは位置の関数となることを応用して、受信信号ベクトルを無線通信の盗聴防止のための秘密鍵に利用する技術も開発されています[1],
[6]。これは、電波伝播の可逆性により正規送信端末と受信無線端末間で共有できる受信信号ベクトルは、異なる位置に存在する盗聴無線端末では知りえないことを活用した技術です。
2.3 高分解能電波到来方向推定
アレーアンテナは無線通信における周波数有効利用の用途のみならず、電波到来方向(以降、DOA:Direction-Of-Arrival)推定にも活用できます。自律分散型無線ネットワークにおいて、通信相手がどの方向に存在するかはルーティングの点からも重要な情報です。前節で無線端末の屋内位置検出について述べましたが、この方法では予め位置検出プロファイルが必要でした。それに対して、DOA推定法ではそのような予備知識は必要ありません。
エスパアンテナのDOA推定法として, 周波数スムージングによる最大電力法[7]やPPCC(Power
Pattern Cross Correlation)法[8]、リアクタンスドメインMUSIC(以降、RD-MUSIC)法等が提案されています。最大電力法はビームを切り替えて受信電力が最大となるビーム方向を電波到来方向とみなす方法であり、PPCC法は各ビームの受信応答を方位角ごとに配列した「モードベクトル」と受信信号ベクトルとの相関係数が最大となる方向を電波到来方向とする方法です。RD-MUSIC法は受信信号ベクトルの相関行列を固有値分解して得られる雑音固有ベクトルとモードベクトルが直交することを利用した方法であり、受信信号に信号処理を施すことによってビーム幅よりも高い分解能を達成しています。最大電力法、PPCC法、RD-MUSIC法の順に高分解能になりますが、計算量も順に増加しますので、用途に応じて推定方法を選択する必要があります。
また、7素子円形配列エスパアンテナは六角形の無給電素子の中心に給電素子が配置されているため、菱形の平行移動を1組取り出すことができ、空間平均法による相関波の到来方向推定が可能となります。マルチパス環境における直接波と反射波の到来方向をそれぞれ推定することができるため、電波到来方向のみならず送信無線端末位置の推定にも応用できる可能性があります。
3.むすび
エスパアンテナは可変指向性機能を有するシンプルなアレーアンテナです。そのため民生機器への導入に適しており、様々な無線通信機器への搭載に向けた設計・開発が進められています。また、小型化や広帯域化、高利得化など更なる性能向上のための研究に取り組み、自律分散型無線ネットワークを形成する付加価値の高いアンテナとしての実用化を目指しています。
参考文献