大規模アドホックネットワークの
実現に向けて
ATR適応コミュニケーション研究所
Peter Davis、門脇 直人、小花 貞夫
1.はじめに
アドホックネットワークは複数の端末が互いに中継することによりデータ伝送を実現し、携帯電話の基地局や無線LANのアクセスポイントのような既存の通信インフラが存在しない環境においても、遠隔の端末同士が通信可能となる技術です。
アドホックネットワークには、防災・防犯・災害時対策、環境・エネルギー対策、さらには高齢者介護・医療での応用など多くのアプリケーションが期待されています。また、私たちの日常生活をより便利・快適にするための手段としての利用も注目されています。例えば、会議中でのPC間のファイル交換、仲間どうしでの対戦ゲーム、IP電話(VoIP)やピア・ツー・ピア(P2P)の新しいサービス、街角宣伝などへの応用などがあります。
これらアプリケーションを実現するためには、数百・数千の端末(PCのみならず、ケータイ、情報家電、ゲーム機、車載機、センサ等もここでは「端末」と呼ぶことにします)からなる大規模なアドホックネットワークの構築、運用技術が必須となります。しかしながらこのような大規模ネットワーク環境では、端末の移動や電波環境の変動などにより、周囲のノードとの通信が不安定になるとともに、その影響がネットワーク内に広がりネットワーク全体の動作が不安定になると言われています。このような問題に対して、これまで、シミュレーション等による机上検討や少数の端末を使った小規模ネットワーク実験による現象解明・対策技術の検討が行われてきましたが、実フィールドにおける大規模ネットワークの振舞いは十分には明らかにされていません。(図1)
ATRでは、大規模なアドホックネットワークを構築・運用するためのさまざまな課題を解決するための研究開発を行ってきており、以下にその内容を紹介します。
2. 大規模アドホックネットワークの実現の技術課題と解決方法
実用的な大規模アドホックネットワークを実現するために様々な工夫が必要ですが、ここではいくつかの例を紹介します。
2.1 複数のレイヤにおける自律制御
アドホックネットワークでは中央集権的な制御がないために、それぞれの端末が、他の端末と協調して、自分自身で(自律的に)制御を行う必要があります。ひとつの端末内であっても、図2に示すいろいろなレイヤでそれぞれ自律的な制御を実行します。例えば、アプリケーションのレイヤでは、アクセスしたいコンテンツやサービスを提供するアプリケーションの相手先を発見する制御を行います。通信の経路を選択する(ルーティング)レイヤでは、アプリケーションで決められた宛先に、複数の端末を経由してパケットを送り届ける端末中継機能を実現します。また、無線通信のレイヤ(WLANレイヤ)では、無線の送受信の制御を行います。ここでは、例えば、a)どの無線周波数で送信すべきか、b)周囲端末の送信とぶつからないようにどのタイミングで送信するか、c)パケットが無事に受信されたという合図(ACK)を送信先から返信されたかを確認し、返信されない場合にもう一度送信するなどの制御を行います。これらの複数のレイヤにおける自律制御は協調して動作します。
2.2 安定な通信の実現
端末の数が多いアドホックネットワークや、勝手に移動する端末同士の通信では、電波の遮断や干渉がさけられない場合が多く通信が頻繁に切れることがあります。たくさんの中継端末が周辺に存在していればどれかが安定な中継をしてくれることが期待できますが、どの端末に中継を依頼するかをうまく選択することが安定な通信を確保するための鍵となります。しかし、位置と条件によってパケットが届いたり届かなかったりすることが中継端末選択の判断を難しくしています。ATRでは、この問題を克服する対策として、隣接する端末との通信品質の時間変動を監視することにより、安定な通信が行える中継端末を選択するルーチング方式を開発しました。図3にその例を示します。端末Cにおける端末Aからの信号の強さ(レベル)が不安定な場合、端末Aは直接端末Cにパケットを送信する代わりに、端末Bを経由して端末Cに送ります。これまで、中継端末の数がもっとも少ない経路を選ぶことがよいとされてきましたが、良い品質、安定した経路を選択することが重要です。いうなれば、「急がばまわれ」です。
2.3 ダイナミックな安定性の維持
もう一つの重要な課題はネットワーク全体の安定性の問題です。例えば、上記の経路選択の例では経路切り替えのタイミングが遅れるとネットワーク全体が不安定になります。アドホックネットワークでは各端末が行っている制御が自律的でしかも複雑です。自律的に実行する複数のプロトコルに従いながら周囲の端末と相互作用をし、さらにレイヤ間でのやり取りもあります。周囲の端末の移動やニーズの変化に応じて、接続の種類や経路を逐次変化させる必要もあります。周囲の端末の状態を一致させる必要があり、それを集中的に制御する「神様」がいないため、内外の環境の変動に十分対応できなく不安定になりやすくなります。従来、大きなネットワークを実現できなかった理由はここにあります。ATRはこの問題に対応するために、ネットワークの安定性を考慮した経路更新のタイミング制御法などを開発しました。
3.実証実験
上記の技術の効果を実証するために、多数の端末数からなるアドホックネットワークを構築し、実証実験を行ってきました。ATRの社屋内では、常的な利用を目的に、50台以上のPCやPDAからなる屋内ネットワークを実現しました。ATRの屋内実験では、特に低ロス・低遅延の通信特性を必要とする音声通信の実現を目標としました。前節で紹介したATR独自の経路選択や切り替えのタイミング制御方式などを適用することによって、端末を2〜4回中継して通信した(無線区間が3〜5ホップ)場合でも、パケットロスが数パーセント、遅延が10ミリ秒以下の優れた特性を実現し、高品質なIP電話(SIP-VoIP)が利用できることを実証しました。(図4)
また、新潟大学構内でも、ATRがコアメンバであり事務局をつとめる「アドホックネットワーク・プラットフォームに関するコンソーシアム(委員長 新潟大学 間瀬憲一教授)」と協力して、70ノード以上の大規模な野外ネットワークの実験に成功しました(2005年3月)。図5に、新潟大学構内での実証実験における、a)端末間の通信状況とb)接続端末数など接続状況の時間変動の例を示します。
4.まとめ
基地局やアクセスポイントなどの通信インフラを必要とせず、端末同士が直接通信するアドホックネットワークでは、端末がそれぞれ自律的に通信の制御を行う必要があります。従来のネットワーク制御・運用技術では大規模なアドホックネットワークの実現は困難でした。ATRが開発したアドホックネットワーク制御技術により、大規模かつ安定なアドホックネットワークの実現が可能となり、実用的な利用への道を開くことができました。今後の新しい通信の形態を支える基盤技術として大いに期待できます。
参考文献