●ATRの自律分散型無線ネットワーク


アドホックネットワークに期待する



新潟大学工学部情報工学科教授
間瀬 憲一



 ここ数年のアドホックネットワークの研究開発活性化には目を見張るものがあります。アドホックネットワークをメインテーマとする国際会議、ワークショップなどが続々と誕生し、内外の学会誌などでの特集も急増しています。インターネット技術の標準化組織であるIETF、無線LAN、MAN技術の標準化を行うIEEE802などでアドホックネットワーク関連の作業グループも次々と誕生し、活発に活動しています。電話は距離の限界を克服し、ITはメディアの限界を克服しました。アドホックネットワークは接続の限界を克服する技術でありユビキタスに要の技術と考えています。これは『置けばつながる』ということであり、UPnP、Jiniのような『つながれば使える』コンセプト・技術と融合・進化することにより『置けば使える』世界が実現することを意味します。“Plug and Play”ならぬ“Place and Play”です。近年のアドホックネットワーク研究開発の活況を短期的なブームのように見る向きもありますが、組み込みコンピュータ、微小センサー端末などが身の回りに増えて人口の10倍、100倍にもなり、モノとモノが通信するユビキタス社会を想像するとき、『置けばつながり使える』技術の発展・進化は必然のことと思われます。そしてインフラがなくとも『置けばつながる』の前提としてオール無線と、自律分散は不可欠でありこれがアドホックネットワークの本質であろうと思います。
 新潟県には『雁木(がんぎ)』という伝統的な建築様式があります。各戸が通りに面した側に屋根を張り出し、それがつながってアーケードのようになったものです。大雪になっても通路やコミュニティを確保するための知恵・風習です。江戸時代、豪雪で知られる高田が発祥の地で、雁がつながった形を連想させるため、この名があるそうです。各戸が自分の敷地や費用を負担するボランティアによって、公共的な設備を作り上げるというのはなかなか優れたアイディアであったと思います。
 さて、私はアドホックネットワークにより通信やネットワークの世界でもこのようなことが今後実現するかもしれないと考えています。いわば、『ネットワーク社会における雁木』です。電話に代表される通信サービスを実現するネットワークは通信事業者などの専門家が構築し、そのサービスを『加入者』というお客様に提供するのが何十年の間、変わらぬ常識でした。通信サービスが規制の対象であり、通信設備や装置が高価であり、ネットワーク作りに特別のスキルが必要だったことなどが背景にありましょう。
 アドホックネットワークはノードを置けばつながることにより特別なスキルをもたずともネットワークを構築・運用することが可能です。言わば『ネットワークの家電化』です。このような変化はネットワークの構築・運用に新たなパラダイムをもたらすのではないでしょうか?例えば、ネットワークの利用者が自らネットワークを構築したり、ネットワークの設備を自主的に提供し、それらのネットワーク設備が無線により自動的に接続され、地域社会で活用されるといったことも考えられると思います。このようなネットワークは『ボランタリー・ネットワーク』と呼べるでしょう。具体的なイメージは、各戸が玄関先に無線LANのアクセスポイントみたいなものを置くと、それらが自動的に無線で相互接続され、地域ネットワークが出来上がるというものであり、まさに現代の雁木と言えましょう。このようなネットワークは、地域におけるインターネット・ブロードバンドアクセスの促進、新たなビジネスモデルやサービス創造に役立つと共に、安全で快適な地域社会の実現や地域経済の活性化に寄与する可能性があります。
 昨年来、国内では新潟県中越地震、福井県の洪水、海外ではスマトラ沖の地震、それによる津波など多くの大規模自然災害が発生しています。その中で、災害発生から10数時間、あるいは数日にわたって切迫した被害状況がわからず被災者の救出が遅れるといった問題も顕在化しました。また、伝送路切断、バッテリ切れ、異常輻輳と規制などの要因により、電話、携帯電話がほとんど役に立たない場合があるなどの問題も再認識されました。このような大規模災害時には臨時通信システムの構築・運用も必要になりますが、時間と場所を選ばない自然災害に電気通信事業者や専門家だけで万全の備えをするのは困難です。アドホックネットワークは本来、インフラが利用できない場合の即時ネットワーク構築技術であり、災害時の通信確保に有力な手段になると考えられます。具体的には被災者・遭難者が救助を求める手段として、救助隊員間の通信手段としての利用はもちろんですが、公衆網とのゲートウェイ機能を持たせることにより、被災地と外部を結ぶ通信ライフラインを実現する手段としても期待されます。また、電気通信事業者だけでなく、被災者、ボランティア、電車、バスなどの公共交通機関、市町村などあらゆる個人、組織が連携してネットワーク作りと運用に参加する可能性をもたらします。今後、大規模災害時のアドホックネットワーク技術の活用に向けて本格的な取り組みが必要と考えています。
 ATR研究所はアドホックネットワークに関連して物理層からネットワーク層まで先進的な研究実績を有しアドホックネットワークプラットフォームに関するコンソーシアムの活動でも主導的な役割を果たしています。今後はさらにATRの総合力を生かしアプリケーション、セキュリティ、社会への受容性まで含めた幅広く戦略的な研究開発の推進と我が国のアドホックネットワーク研究を牽引する役割を期待しています。