


ユビキタスネットワーク社会への潮流と
ATRのデバイス研究への期待
北海道大学 量子集積エレクトロニクス研究センター
センター長・教授 長谷川英機
ATRジャーナルが、今回デバイス関係の研究を特集するにあたり、寄稿のご依頼をいただいた。光栄に感じ、私が日頃考えていることを、述べさせていただく。
さて、その昔、イエス・キリストのなきがらは、どの教会にも「あまねく存在する」と信じた「ユビキタス」宗派というキリスト教宗派があったとのことである。よく「知の世紀」といわれる21世紀は、この我々の日常生活には到底登場しそうもなかった耳慣れないラテン語源の英単語「ユビキタス」を、小学生までが口にするような新しい時代として幕開けした。しかし、ここで「あまねく存在する」のは、「神」ではない。それは、高度な情報処理機能をもつ「知識担体」としての大小さまざまな「コンピュータ」であり、しかも、これらは通信機能により、大小さまざまなネットワークを構成するのである。「神」ではないといったものの、ひるがえって考えてみると、来るべきユビキタスネットワーク社会は、これまで「神」にしかできないと考えられてきた不思議な技を、ごく普通の人間が、手にできる社会であるともいえそうである。すなわち、人々は、時空を乗り越え「人」や「もの」に問いかけ、情報や知識を得たり、指令を与えたり、自分の分身として機能する「もの」を、すきな時に、すきな場所に、すきな数だけ作り出し、監視を行ったり、連携させ新しい知識を見出したり、決断し、命令するのである。まさに神業である。
これは非現実的空想ではない。前世紀末に生じたインターネット革命と、ワイヤレス電話の爆発的発展の自然な延長線上にあるのである。実際、この考え方は、現在「無線タグ」や「RF・ID」と呼ばれる形で急速に実用化が進みつつある。しかし、その行き着く先は、想像もつかない広さと深さを秘めており、とても、従来の情報技術、「IT」、の枠には収まりそうもない。例えば、前世紀後半「ミクロの決死圏」としてSFの範疇にあった空想が、現実の「治療チップ」として製作され、人体に入り、ワイヤレスで外部と交信しつつ、病巣を探索し、治療する日が近く来るかもしれず、それが医療に与えるインパクトは測りしれないほど大きい。
さて豊かなユビキタスネットワーク社会を構築する上で、ひとつのかなめとなるのは、新しいデバイスの創出である。前世紀のデバイス技術を集約しその中核を担ってきたシリコン技術は、大局的には完成と飽和の域に到達し、その重要性は依然としてゆるぎないものの、一方に閉塞感と過当な経済競争を引き起こすまでに至っている。ユビキタスネットワーク社会の構築は、この状況に新しい突破口を与える可能性がある。ここでは、例えば、超ミクロの空間で、超低消費電力で多様な機能・性能を発揮するデバイスが求められ、その機能には、種々の物理量のセンシング、分子認識や、振動・移動・回転などの力学的運動まで含まれる。そのため、従来シリコンデバイスに求められた原理・機能の単純さ、高度の均一性、高い電流駆動力などとは違う、多様な価値観が支配するのである。
21世紀初頭の科学技術の潮流は、すでに、「ナノテクノロジー」、「量子工学」、「材料の多様化」、「複雑系」、「新しいアーキテクチャの構築」に向かってとうとうと流れ出しているように思われる。前世紀に現象の説明の道具であった「量子力学」は、原子分子レベルのナノデバイスの設計原理のみならず、超並列計算を可能とする「量子コンピューティング」や高度なネットワークセキュリティを約束する「量子通信」の方式面での原理となった。一方、前世紀では、デバイスとシステムは、デバイスの「デザイン・ルール」からはじまる多数の階層で隔てられ、相互の会話が不可能な専門技術者を生み出した。しかし、我々が生体から学ぶことは、原子・分子レベル、細胞レベルの複雑な現象と、機能との深いかかわりである。我々の新しいナノデバイスをいかすのは、そこに生起する物理化学現象と深くかかわりをもつ「新しいシステムアーキテクチャ」であるに相違ない。新しい世界の構築には、従来の学問・技術の枠を超えた広い視野と深い専門性と創造性の高い基礎研究が求められている。
さて、こうした観点から、今回の特集を見てみよう。ユビキタスネットワーク社会の構築に、なかんずづく必要となるのは、大小さまざまのネットワークに、フレキシブルな通信を可能とする一連のデバイスである。ATRの適応コミュニケーション研究所におけるデバイス研究は、そうした時宜を得た方向を志向したものである。その研究グループの数や規模は、決して大きくはない。しかし、その研究内容は、いずれも上述の科学技術の潮流に沿い、しかも、それらを先取りするような先進性と高い独創性を備えている。例えば、微細なスタジアム状の共振器をもつレーザの研究は、複雑な量子カオスの先端的話題であるが、その成果が関連分野で最も権威の高い雑誌の1つであるフィジカル・レヴュー・レタ−誌で公表され、しかもその発振パターン図がその掲載号の表紙に採用された例は、研究の質の高さを示している。また、3次元微細構造形成技術である「マイクロオリガミ」技術はそのエレガントなネーミングを含めて、ATRの独自技術であり、光通信用のマイクロミラー形成に最適であると同時に、それにとどまらない広い応用の可能性を秘めている。さらに、やはりATRで独自に研究開発されたラテラル接合技術も、今後ますます重要となる光デバイスの集積化に強力な手法であり、その発展が期待される。これらの例のように、ATRのデバイス研究は、強い独自性、珠玉のような科学性と、深い応用可能性を秘めており、関連分野において、国内外から、今後のますますの発展が期待されているものである。
末筆ながら、北海道大学においても、IT関係の21世紀COEプロジェクト「知識メディアを基盤とする次世代ITの研究(代表 田中譲教授)」が走っており、新しいユビキタスネットワーク・アーキテクチャとそれを可能にする微細知識担体「インテリジェント量子チップ(IQC)」を創り出す研究を行っている。筆者の研究センターはIQCの実現を目指しており、共通の面の多いATRのデバイス研究に対する関心は高く、私共の国際シンポジウムでご講演いただいたこともあり、今後何か共同してできたらよいなあなどと感じているところである。