ヒューマノイド・ブレイン・プロジェクト
ーアトム計画の実現を目指してー



人間情報科学研究所 川人 光男



はじめに
 ATRは「脳を創ることにより脳を知る」というキャッチフレーズに表される計算論的神経科学という分野を開拓し、世界をリードしてきました。ヒューマノイド・ブレイン・プロジェクトでは、この研究手法をさらに発展させ、ヒューマノイド・ロボットに神経科学に基づいた人工脳を与えることで脳を知ることを目指します。この過程での波及技術により、未来型通信端末の実現、家庭内ロボット、リハビリテーションへの応用が生まれてきます。

ヒト・コミュニケーション技術の発達
 ヒトの文明、文化、科学技術、産業、経済の発展はひとえに、人類が発明してきた新しいコミュニケーションのスキルと技術に依存していると言って過言ではありません。300万年前にすでに人類の祖先は他の類人猿とは異なるミメシスと呼ばれるコミュニケーションのスキルを身につけ、道具の製造や集団作業が可能になりました。数十万年から数万年前に言語が発生するとコミュニケーションは高効率となり、石器の多様性が爆発的に増大します。表1に示すように、文字、電信、インターネットなど、新しいコミュニケーション技術が生まれるたびに、古代農耕文明、産業革命、IT革命など、人類の文化文明の飛躍がもたらされました。過去のトレンドを外挿すれば、私たちの未来のコミュニケーション技術は、時間と空間と文化を越えて、文字や画像、音声などの限られた情報を超えて、面と向かっての物理的な相互作用を含む自然なコミュニケーションを実現するものになることは疑う余地はありません。

未来の通信技術が克服しなければならない困難
 テニス好きの夫婦が夫の単身赴任のために日本とアメリカに別れて住んでいますが、どうしても二人でテニスをしたいとします。本当の(物理的に実感できる)テニスをするためには、図1に示したように妻のそばには夫の代わりのロボットが、夫のそばには妻の代わりのロボットがいて、日米同時にプレーが行われなければなりません。この2つのプレーがほぼ同じであるためには、通信に伴う時間遅れを克服することが最大の難関となります。衛星通信などを用いたテレビ電話会議で、相づちや目配せなどのコミュニケーションが数秒遅れて非常に気持ちの悪い経験をしたことがある方なら誰でも、こんなことは不可能であると思われるでしょう。これを解決する唯一の方法は、夫の代理のロボットには夫の脳の、短期間ではあるが、定量的によい脳のモデルを乗せることです。これはある意味で短時間のタイムマシンを作ることに匹敵するというコメントをもらったこともあります。

ロボット研究と脳研究の融合
 上で説明したように、脳の基本機能の理解に基づくより人間に近いヒューマノイド・ロボットの開発に成功すれば、画期的な未来型通信端末の実現に大きく近づきます。時間遅れの問題は、端末に通信者の定量的な脳モデルを実装し、見まね能力を与えることによってしか解決できません。ここに脳科学とロボットに基づくコミュニケーション技術を融合する必然性が、電気通信の側からあるのです。

DBの見まね学習
 ERATO川人学習動態脳プロジェクトで開発したヒューマノイド・ロボットDBは、ATRサイバー・ヒューマン・プロジェクトの研究により、3歳の誕生日を待たずに表2写真1に示した24種類の芸ができるようになりました。そのほとんどが見まね学習による獲得や、脳の計算原理に基づいています。ロボットやコンピュータは、会話を理解する、情景を理解する、滑らかに運動するなど、普通の人間が苦労もなく行っている能力について、いまだに2、3才の子供と比較しても劣っています。これはロボット研究や人工知能研究の停滞を示すとともに、いまだに脳の機能が理解できていないことも示しています。この困難を克服するために、人間と同じ大きさ、重さ、柔らかさ、感覚器を持ったヒューマノイド・ロボットに、人間の見まねをさせることを切り口に研究を進めてきました。見まねとは、他者の動作を観察し、他者の意図を推測することにより、同じ課題を解決することです。私たちは、これがヒト知性の基礎になっていると提唱してきました。

アトム計画
 今の日本は元気がありません。政府も民間も経済・産業振興の速効策を科学技術に求めていますが、とんだお門違いです。こんな時こそ、10年後、20年後の日本の発展の基礎となる夢のあるプロジェクトを始めるべきだと思います。私たちは数年前から、米国のアポロ計画を意識して、アトム計画というものを提唱しています。現在、ATRを含む日本はロボット研究において世界をリードしており、またATRが提唱してきた計算論的神経科学は脳科学の革新的な手法として広く認められ、また国家的な萌芽・融合研究の重要トピックスにもなっています。その双方の技術、知見、手法を有機的に組み合わせることで、脳機能の解明、特にコミュニケーション能力を統一的に理解し、そしてそれに基づく学習型ヒューマノイド・ロボットの開発を目指すのです。10年後に、完全自立でヒトの5歳程度の知性と感覚運動能力を有するヒューマノイド・ロボットを開発することを目標とします。スプートニック・ショックで落ち込む国民を、月面に人類を送り込むという誰にでもわかる目標で鼓舞したアポロ計画は、テフロン鍋から、コンピュータサイエンスまでの莫大な遺産を米国に残しました。アトム計画の技術波及は、携帯電話端末なのか、エンターテインメント・ロボットなのか、介護ロボットなのか、リハビリテーション・ロボットなのかは今の時点で予想もつかない方が楽しいのです。しかし肝心なことは、目標そのものに夢があって、科学者技術者が真剣に取り組めるプロジェクトが必要ということです。速効策をうたって、どぶに金を捨てるような愚策が昨今多すぎます。官界、経済界も一工夫欲しいところです。