ユビキタスネットワーク社会の新メディア
1.はじめに
ATRメディア情報科学研究所では、人間同士がもっとわかりあえる社会を実現するため、体験を共有することを目的とした新しいスタイルのコミュニケーションを研究しています。海外旅行や運動会といった特別なイベント体験だけに限定せず、起床から消灯までの日常生活の行動からも、情報に価値のある経験や体験を記録し他人と共有することを目指します。そして視覚や言語のみに頼らずにさまざまな情報を自動的に記録するメディアを研究しています(図1)。例えばジェットコースターに乗った体験を、実際に見える画像・音の他に、緊張感・心拍数・発汗・脳波などのデータも記録します。この興奮や緊張をしている状態を、他の人にもわかるように伝えられれば、経験を共有したり新しい体験を創造するといったコミュニケーションの可能性が広がり、また、ちょっとした生活上の知恵や学習における発見、あるいは心を揺さぶる風景は、他人や家族との体験共有コミュニケーションの大事な内容となるでしょう。
他人と体験をうまく共有するためには、記録された体験が豊かな情感・知識や置かれた状況の情報を多く含んでいる必要があります。これを実現するためには、まず個人の行動を上手に記録するメディアが必要です。ATRでは、体験データを記録するメディアとして、ぬいぐるみ型ロボットを使って研究をしています(図2)。
2.体験共有のためのメディア −ぬいぐるみ−
古典的な体験記録の代表的な方法として日記が挙げられますが、これまでは、ノート・スケッチブック・コンピュータなど、体験とは直接関連のない道具を使って記録されてきました。本研究では、体験を共有する仮想的なパートナーになりうるぬいぐるみを、新しい記録メディアとして考えます。
私たちのぬいぐるみは、ビデオカメラ・マイク・加速度センサ・PCを内蔵し、圧力センサ・曲げセンサ・赤外近接センサ・温度センサなどを身体各部に装着しています。これにより、いろいろなイベントを記録して残すシステムをまず構築し、日常的な行動のなかから、エピソードになるような特別なイベントを自動的にラベリングして抽出する実験をしています。
ぬいぐるみは、人間に古くから親しまれていて、頭や手足を持ち、やわらかな感触を与えるので、人間社会に溶け込みやすいメディアであると考えられます。また家具や文房具やコンピュータとは異なる、人との密接な距離を保つので、他の道具では得られない多くの体験情報を記録することが可能になるでしょう。人間はぬいぐるみなどの擬人的なものに、あたかも他の人間に対するような振る舞いを起こすことが検証されています。この研究ではそのような人間の行動原理をうまく利用して、人間がぬいぐるみをなで、声をかけ、手足をひっぱり、一緒に行動するデータや、そばに置いた状態でまわりの状況を記録させることができます。この機能を使うと、ぬいぐるみ2体以上をネットワークでつないで気配の通信をすることも可能です。一方のぬいぐるみを触れば、遠方のもうひとつのぬいぐるみが動いたりしゃべったりして相手に自分の様子をぬいぐるみを通してほのかに知らせることができます。
今までの記録メディアの例として、ビデオカメラを考えると、私たちはカメラを常に持ち歩いていても、シャッターチャンスを逃してしまって悔しい思いをすることが多くあります。ぬいぐるみを使ったデータ記録では、チャンスを自分でとらえるのではなく、生活のすべてを自然に、手軽に記録することができます。また情報を取り出すうえでも、ただ漫然とビデオカメラを回していたのでは、大量のデータのなかから意味のある情報を取り出すことはもっと大変です。このメディアではいつでも必要な情報を取り出すことができるように、心拍数などの生体情報やぬいぐるみを抱いたり触れたりするやりとりのデータによって、ビデオデータに別の観点から意味づけしています。
ぬいぐるみで記録した体験をどのように表示するかは、重要な研究課題です。現在は、ひとつの解決方法として、絵日記のような形で他人に読んでもらう方法を実験しています。
3.ユビキタス環境社会のメディア
ユビキタス社会では、役に立つ情報を手軽に、また安全に受発信する新しいメディアや仕組みが必須となるでしょう。
ぬいぐるみ以外のメディアとして、センサ付きの洋服などに代表されるウェアラブル・コンピュータや、部屋全体にセンサを置いて人の行動を記録する方法などが考えられます。部屋に取り付けられたセンサは、人間と物理的な距離があるため客観的な記録に役立ち、衣服のセンサは、自分の動きそのものを記録するのに有効です。それに比べて、ロボットを利用した記録方法では、いわばパートナーのように、使う人の選択により、あるときは自分の視点で共感しながら、また別のときは第三者の視点で冷静に体験を記録してくれます。ATRではそのような中間的なメディアがユビキタス社会には必要であると考え、人間と行動をともにするロボットに注目し、ぬいぐるみ以外に「ロボビー」や「む〜」といった自分から話しかけてくるロボットの研究開発を行っています。これらのロボットは、能動的に人間に話しかけ、動きを持って接しますが、それに対し、クマのぬいぐるみはジェスチャーで存在感を強くアピールする代わりに、人間が能動的に働きかけることを引き出す存在となります(図3)。
このように、人に共感を起こさせる行動の記録と表現をするメディアは、体験共有コミュニケーションの研究にかかせないもので、ユビキタス情報環境にとって、コミュニケーションを豊かにする新しくて重要なアプリケーションを実現するコア技術のひとつになるでしょう。
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