
−人間情報通信研究所プロジェクト終了
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Seven Years at ATR-HIP
オクラホマ大学 教授 (前ATR人間情報通信研究所 第6研究室) トマス・レイ
ATR人間情報通信研究所(HIP)での7年は、私にとって公私ともに非常に貴重な経験でした。私は1993年8月から1998年8月までHIPで常勤として働き、そのあとATRに夏場だけ勤務しています。
私は5年間、日本で暮らす機会を得たこと、そうしてとりわけこんなに子供に優しい文化のもとで娘を育てることができたことをとても幸運だったと思っています。日本の各都市は、都市のあるべき可能性を世界に示すお手本です。そうは言っても、私がそうであったように、予備知識も何の準備もなしにやってきた外国人にとって日本の生活に適応するのはやはり難しいことです。私は、海外からの研究員をあれやこれやと支援してくれるATRの優秀なスタッフに深く感謝しています。ATRに着いたときにはいつもスタッフがすでに私の身の回りの手配(アパートや家具調度、光熱関係等々)をすっかり整えていてくれるため、すぐ研究に取りかかれるというわけです。
HIPの中心的課題は人間が情報を処理する方法に類似したやり方で情報を処理する人工的なシステムを構築することです。HIPはまた私の所属していた第6研究室、すなわち進化システム室(ESD)の支援もしてきました。ESDは直接的には人間の情報処理問題を取り扱いませんが、人間の心を創り出した過程、すなわち進化に焦点をあてた研究に取り組んでいます。
HIPにとって、ESDはどちらかといえばやや投機的な研究分野ですが、それはATR経営陣の応用と基礎の両面の研究に対するその支持・支援を例証するものではあります。
最大規模のソフトウエアシステム、例えば電話交換システムは今やプログラムサイズが数千万コードに膨れ上り、これ以上の発展はもちろん管理さえ困難になってきています。こういったソフトウエアを単に複雑性の度合を増すだけで成長させていけるのかどうか疑わしいところです。ところが進化は数十億コードに基づく「ウエットウエア」システムを創り出しており、これらは頑丈で適応性があり、その性能は人間が作り出したすべてのシステムを遥かに上回るものです。従って複雑なソフトウエアの作成に進化を利用する可能性を探る必要があります。ATRのESDはこの先端分野を探求しているわけです。
米国の流儀から見てユニークに見えるATRの一つの側面は、研究業務と経営業務を合理的に分離していることです。米国の研究機関では研究者が研究資金を調達する重荷の全部ないしは大半を負うことになっています。さらに、研究者各人が調達した資金のうち大きな部分が経営を支えるために使われるのです。これとは対照的に、ATRでは一切の資金繰は経営陣の責任であり、研究者は研究だけに責任を負っています。まさに研究者にとっては天国です。
ATRの研究所は7年から10年の期限つきプロジェクトとして運営されます。
これは長期に亙る研究を支援するには十分な長さであり、しかも研究目的を不断に見直す契機を与えることにもなります。米国では、大概、研究資金の調達は2〜3年単位です。この結果、研究者は次の研究の補助金探しに多くの時間を割かなければなりません。対照的にATRでは、(資金調達に責任のある)経営陣までが資金確保に奔走するよりもプロジェクトの指揮を取るのに大半の時間を使っているのです。
ATRは客員研究者を積極的に受け入れ外国人研究者の割合が高い点で日本ではかなりユニークです。すべての大陸から相当数の研究者が集まって来ていますがとくに欧州と北米が多いようです。ATRで働く研究者の立場から見れば、ATRで恒久的な地位を得られる方が望ましいわけですが、そのような長期在職制度は徐々にATRの活力を蝕むことになりかねません。
ATRで身分保証がないから最高水準のシニア研究者が育たないという議論にも一理あるかも知れません。しかし、ATRが成熟するにつれ優秀なシニア研究者の「外部教授団」を発展させていくことになると私は信じています。若くしてATRを去った研究者たちは、やがて世界各地の研究施設で恒久的な地位につくシニア研究者に育っていくことでしょう。これらの研究者たちは、ちょうどサンタフェ研究所(SFI)の「外部教授団」と同様な役割をATRに対してもつこととなります。
私はついつい、ATRをSFIと対比してしまいます。違いもありますが類似点が多々あるからです。両者とも研究者に恒久的地位を与えない客員研究者施設です。両者とも最先端の研究を行なっており、それによって国際的な名声を得ています。(しかし)ATRの方が研究者の数は多く、資金源も大きく安定度も高いのです。ATRでの研究の方が応用よりの度合いが高く、圧倒的に電気通信関連のものです。にも拘わらず、共通な研究課題があり、例えば両施設とも複雑で適応性のあるシステムに関心を持っています。SFIがこういったシステムについて純粋に研究だけを行なうのに対して、ATRはその構築を試みます。
ATRの資金調達制度が変わったり、実用化研究を勧める圧力が強まる可能性があることは理解できます。しかし、私はやはり、ATRが基礎研究と応用研究のバランスを保っていってほしいと思っています。ATRは現在、世界でも数少ない基礎研究重視型の偉大な研究所の一つです。仮にATRが製品開発に奉仕する研究だけを支援することになれば、それは世界の研究界にとって重大な損失となるでしょう。
ATR経営陣に課せられた今後数年間の大きな課題は、成果展開の有効な枠組みづくりとともに、基礎研究と応用研究の適正なバランスを見い出すことであると考えます。もしATRが製品化につながるような基礎研究上の大きな前進をとげることができれば、それは人類にとってもATRにとっても大きな利益となるでしょう。
最後に、ATRでの数年間は私の職歴にとって有益であったことを申し添えたいと思います。ATRに入ったとき、私は給料も低い準教授でしたが、ATRを去るときは給料も上がって正教授になっていました。大半の研究者は良い就職先を得てATRを去っていくようです。これはATR研究者の質とATRの国際的名声とに対する賛辞を示すものです。
〔翻訳 ATRジャーナル事務局〕