歩行感覚提示装置 ATLAS の開発
1. はじめに
例えば、これまでに見たこともない美しい風景に出くわしたとしたら、その体験を身近な人に伝えたくなるのは自然にわき上がってくる感情です。そのためには写真やビデオを撮るかもしれません。しかし、もっとも確実にこの感動を伝えるには、相手をその時、その場に連れてくることに他なりません。このような、ふとわき上がってくる日常のコミュニケーションで、お互いの意図や感情を理解するためには単に言葉やイメージなどの情報を伝えるだけではなく、対話者がいる環境や、それぞれが体験した情報が重要となります。そこで、我々はVirtual
Reality(VR)技術を応用し、相手の環境に入って対話を行う新しい通信方式である"Tel-e-Merge"環境について提案しました[1]
。
2. Tel-e-Mergeによるコミュニケーション
Tel-e-Merge環境下での対話の場は図1に示すように一方の利用者の存在する環境(Site-A)であり、その環境に存在する利用者(Tele-Inviter)は遠隔地(Site-B)の利用者(Tele-Visitor)を自身の環境に引き込みます。この時、Tele-Visitor
にとっては対話の場はVR技術によって擬似的に構成されます。
Tel-e-Merge環境の重要な点は、Tele-Inviter環境へ入り込んでくる遠隔地の対話者の存在感の提示、つまり、単に発せられる音声や映像情報を交換するだけではなく、情報を発する主体自体の存在感を相互に伝送する点に着目する対話手法となります。
我々はTel-e-Mergeの実施形態の一つとして、遠隔地にいる対話者と一緒に会話しながら歩行しているかのような感覚を提示できる通信装置を開発しています。装置は、遠隔地にいる対話者の歩行動作を計測し、同時にその動作を相殺する歩行感覚提示装置
ATLAS:(ATR Locomotion Interface for Active Self Motion,図2)と、利用者の動作に対応して自由に移動するロボット
AIR(Advanced Imaging Robot of Tele-e-Merge,図3)を組み合わせたものです。対話の場では、AIR
は遠隔地にいる ATLASの利用者の動作に連動して移動します。AIRはテレビ電話機能を有しており、ATLAS利用者との会話のチャンネルを提供するとともにその存在感提示を実現します。この時、ATLASの利用者は自宅に居ながらにして、離れた対話の場を自由に歩いているかのような感覚を得られます。
3. 歩行感覚提示装置 ATLAS
ATLASは、Tele-Visitorの自由な歩行、つまり、任意速度での前進歩行、さらに左右へ曲がる進路変更動作を相殺し、どのように移動してもTele-Visitor
を室内の一定点に保持することを目指した歩行感覚提示装置です。特に、試作ATLASでは、利用者は単に足先に反射マーカーを取り付けて装置上に乗り、ATLASを意識的に操作するのではなく通常の自由歩行動作を行うだけで、歩行状態の計測と歩行動作の相殺ができる点を特徴としています。
基本的な実現手段は動作を計測しそれを相殺する従来の車両等の移動機器シミュレータと同様です。しかし車両シミュレータでは人間と装置間の情報の流れが機器を介するために単純であり計算機処理が容易であったのに対し、歩行動作では人体の挙動と移動の対応付けが複雑なため、実用的な歩行シミュレータは実現困難でした。そこで、ATLASではCCDカメラによって、利用者の足先の動作を計測して歩行動作を推定し、応答の早いベルト機構を用いて前進動作を相殺し、進路変更動作についてはベルト機構全体を回転させて相殺する手法でこれらの問題を解決しました(図4)。
図2に示すATLAS試作1号機はコンピュータ制御されるトレッドミルとそれ全体を3軸で回転させる姿勢保持装置、さらに、トレッドミル先端に固定されたCCDカメラから構成されます。このCCDカメラによって歩行中の利用者のマーカーをつけた両足先の動作が計測され(図4a)、この結果とベルト速度を比較することで足の遊・立脚の状態判定を行います。事前の計測により、歩行速度と立脚時間が反比例関係にあることが確かめられており、この関係と計測される立脚時間を用いて歩行速度を推定します。ATLASではこの速度推定結果を用いたフィードフォワード制御と、推定結果誤差を補償するベルト上での歩行者位置フィードバック制御を組み合わせてベルト速度を制御し、歩行者は常にベルト上の定点に保持されます(図4b)[2]
。
一方、左右への進路変更動作に対しては、まず歩行時の遊脚の軌道の違いに着目しました。直進歩行の際は遊脚はほぼ正面に弓なりの軌道を描きながら着地されるのに対し、進路変更時には遊脚が斜前方に大きく振り出されます。ATLASではこの動作をCCDカメラによって常にモニターし、この動作が計測された際にはそれに連動してベルト面自体を姿勢保持装置によって水平方向に回転させ、振り出された足を常にベルトの中央に着地させることで進路変更動作を相殺する手法を採用しました(図4c)。
また、試作装置ではTele-Inviterの存在する場所の景色と音を取得してATLAS上のTele-Visitorに提示する移動ロボットAIRを試作しました。ATLAS
によって計測されるTele-Visitorの歩行動作はAIR へ伝送され、AIRはTele-Visitorの歩行動作のままにTele-Inviterの環境を移動します。また、AIRの上部にはATLAS
利用者の顔画像を表示するモニターとスピーカーが装着されているため、移動可能なテレビ電話としてTele-VisitorであるATLAS利用者の存在をTele-Inviterに提示します。逆に、ATLASの利用者にはAIRが送信する遠隔地の情報を頭部搭載型ディスプレイ、あるいは、ATLASの周囲に設置する大スクリーンにて表示します。これらによって実在感提示手法に基づいた没入感に溢れる双方向の通信装置が実現されました。
4. おわりに
ATLASで実現された環境は現状では単に遠隔者との歩行時の会話装置として機能しています。これからの展開として、極限作業環境での高度なロボットの制御手段や、スポーツ中継などにおいて選手の間近での迫力のあるコンテンツを家庭で再現できる次世代放送手法などへの応用を計画しています。
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