ATR通信システム研究所草創期のころ




日本電信電話株式会社ネットワークサービスシステム研究所
 第一プロジェクトグループリーダー
元(株)ATR通信システム研究所 通信ソフトウェア研究室長 門田 充弘



ATRジャーナル22号がプロジェクト終了特集とのこと、一昔前の創刊号をめくりながら時の早さに驚いています。10年前の住所は「大阪市東区城見2丁目」です。
 私のATRは1986年4月、窓から水平に視線を移すと大坂城が一望に眺められる、住所どおりのビルのフロアでスタートしました。長い東京生活から大阪のお城が見れる場所で仕事ができるというので、夢のような気持ちで届いたばかりの机の梱包を解いたのを覚えています。
 最初にメンバーは5人で、まずやったことは研究テーマ選びでした。
 ATRは“目的基礎研究”をやるところであり、他の大学や会社と変わらないテーマをやるのでは、ATRの存在価値が無い、また会社形式の研究所ですから、いつ何の役に立つのか分からないというのも困ります。という訳で、通信ソフトウェア研究室として、研究テーマは、・非言語的意志疎通の研究、・高セキュリティネトワークの研究、・通信ソフトウェア自動作成の研究、の3つを設定しました。
 一応の研究テーマ設定のあと、9月から加わる第2陣のために、研究所のインフラ作りに入りました。テーマの関係でワークステーションや計算機の設置が最初の作業になり、おかげさまで最新鋭のものを揃えることができました。しかし困ったこともありました。それは故障や問題が起こった時に、ほとんどの場合大阪には予備の部品がなかったり、細かいことの分かる技術者がいなかったりして、解決するのに半月程度かかってしまったということです。今ではこの問題はないと思いますが、ATRが関西にできたことも少しはこの改善に貢献したのではないでしょうか。
 研究図書の購入も大急ぎでした。書店の方に協力してもらって相当数を揃えることができましたが、問題は学会誌等のバックナンバーが揃わないことです。これは急にできることではなく、歴史的厚さの重要性を実感しました。
 1986年9月から研究者が増えて本格的に研究開始しました。非言語的意志疎通の研究では、概念図のサンプルに簡単な通信サービスのソフトを作る作業をしてもらい、その一部始終を電子化することをまずやりました。
 設計しながら設計者が頭に浮かべていることを適当な塊にして文字化する訳ですから結構大変で、私が在籍した3年間は題材集めや試行錯誤の連続だったように思われます。しかし今では(私の手もとに送って頂く論文集を見ると)毎年60〜70件が発表されるまでになって、見違える感じです。
 関西にある大学の先生にその頃できたばかりのATRのロゴマークを紹介したところ、ATR研究者が2〜3年の出向者で構成するということを心配されて、「研究がATRのマークのように切れ切れにならないようにしないと」と言われたのを覚えています。最初の研究を引き継いで頑張っていただいた歴代の研究者の方には本当に感謝します。
 1987年には、「相楽郡精華町乾谷三平谷」の研究所建設現場を見学しました。山を崩しただけの何もないだだっ広い台地に、10年目のATRは「精華町光台」で最先端のビルに囲まれて、中身も周辺も飛躍的に発展しました。新しいプロジェクトでは、10年間の貴重な蓄積を大事にして、さらなる発展を期待しています。
 3年間は今から振り返ると本当に短い期間でしたが、私にとっては、新しい組織、新しい勤務地で、働き盛りの時間を過ごせたという三拍子で、何物にも変え難い時間だったと思います。