創業の頃を顧みて
−黎明期の大阪暫定研究所−
NTTアドバンステクノロジ株式会社 技術調査部長
前(株)ATR通信システム研究所 社長 山下 紘一
1986年4月1日(火)午後2時、大阪ビジネスパーク竣工間もないツインタワーMIDビルの12階の一室に、10余りの機関・企業からの研究所員30数名が集まり、日裏社長の開所の挨拶に聞き入った。開所式の後14階に上がると、南北に走る廊下が区切るフロアの東半分、ガランとした空間の一角に机が10個ばかり配置されており、それが通信システム研究所と光電波通信研究所の共同オフィスであり、廊下の向いの西半分は自動翻訳電話研究所と視聴覚機構研究所であった。
もっともこの時点では、各研究所はまだそれぞれ、国際電気通信基礎技術研究所の情報科学第1研究部、光電波研究部、情報科学第2研究部、人間科学研究部であり、株式会社である各研究所の創立は4月26日であった。この日はチェルノブイリ原発事故の当日である。
ツインタワービルの1階から4階を占めるハイセンスなショッピング街は、連日見物客で賑わった。真新しいオフィスビル街に高級ホテル、そして大坂城公園。ATRは大阪新名所の真っ只中に位置していた。5分も歩けば大阪環状線、学研都市線、京阪電車の京橋駅であった。このような都市センター型研究所として歩み始めたことは、ATRが多くの方々の来訪を得て、認知度を早急に高めるのに効果的であった。
京橋駅界隈は歓楽の巷である。日暮れ時になるとだれからともなく声がかかり、繰り出すこととなった。そこに轟くエネルギー溢れる赤提灯群は、異なった機関や企業から集まった研究所員が打ち解け合う格好の語らいの場であった。
研究は研究計画の策定と研究環境の整備から始まった。これは、既に策定された研究プロジェクト「知的通信システムの基礎研究」の大綱に沿って、研究内容を具体化するものであった。
通信ソフトウェア研究所室の門田充弘室長と田中一敏主幹研究員、知能処理研究室の小林幸雄室長、秋山健二主任研究員と私の5人に、時にはぶらりと立ち寄られる葉原ATR副社長も交えて、通信の未来論に時の経つのも忘れた。終日議論した帰宅の電車で吊革にぶら下がって論議を続けたのも、今は懐かしい思い出である。このような議論の中から、キャリイングビークルとして臨場感通信会議や知能処理によるソフトウェア作成のイメージが形作られていった。
計算機やワークステーション、実験機器、図書、フリーアクセス化等研究環境の整備も日毎に進んだ。これに伴って、14階東側は通信システム研究所が占有し、西側には光電波通信研究所、そして自動翻訳研究所と視聴覚研究所は13階を占めることとなった。
その後も、研究規模の拡大により各研究所は新しいフロアへと拡張を続けた。このようにして研究所の体裁も整った9月1日、若手研究員の第1陣を迎え入れることとなった。通信システム研究所も気鋭の研究員8名が加わり、研究は新しい発展段階へと進んだ。
創立から3年間の大阪暫定研究所時代の中でも最初の5ヵ月は、私にとって特に様々な出合いに満ちた興奮の日々であった。記憶を辿ろうとすると、当時の興奮した感覚と共にATRの内外を含めて多くの方々に支えられたという思いが、まず蘇ってくる。一つ一つ述べる紙幅はないが、改めて謝意を表すとともに今後のATRの一層の発展を祈念するものである。