脳で物をつかむ
−目と手からの情報統合−



1.つかむ前に手の形が計算される
 ヒトが何か物をつかもうとするときには、手が対象物に届く前にその大きさや形、機能に応じて手の形を準備するプリシェイピング(pre-shaping)と呼ばれる行動が見られます。たとえば、写真1運動では、腕を伸ばしながら手の形をコーヒーカップに合わせており、そのためにコーヒーカップをスムーズに持ち上げることができています。プリシェイピングは、ヒトが対象物の形を見たとき、実際に物をつかむ前に、その視覚情報からつかむのに適した手の形を計算できることを示唆しています。

2.把持対象の脳内表現
 目で対象物を見てプリシェイピングが実行されるまでには、脳内で情報の表現がどんどん変わっていきます。私たちは、例として、テーブルの上に置かれたコップをつかむときの情報処理の流れを図1のように推定しました。この情報処理の過程で、脳内に対象物(コップ)に関する表現がつくられることを仮定しましたが、それではこの脳内の表現(内部表現ともいう)とは、どのようなものでしょうか。Marrは、視覚系の情報処理の目的は対象物の3次元モデルを脳内につくることであると述べています[1]。しかし、対象物を操作するためには必ずしも正確な3自分モデルを必要としません。むしろ、対象物に対する感覚情報の中から必要な情報だけをうまく抽出して、運動にとって都合のよい情報表現を脳内につくることが要求されるはずです。コップを扱うのに必要な表現をつくるためには、コップの画像情報だけでなく、手の動きに関する情報が不可欠です。図1では、このような運動情報と視覚情報(画像情報)とが統合されて、対象物に関する内部表現が形成されるものと仮定しました。

3.目と手からの情報を統合する神経回路モデル
 視覚情報と運動情報を統合する具体的な仕組みはどうなっているのでしょうか。私たちは、情報圧縮を利用して異なる情報を統合する神経回路モデルを考案しました[2]。その基本的なアイディアは異なる感覚情報のうち、不必要な情報を捨て、運動にとって不可欠な情報表現を獲得することです。
 神経回路モデルは、図2に示すような構成で入力層と出力層が全く同じ構造をしており、含まれるニューロン数も一致しています。回路は上下二段に分かれていますが、中間層を共有しています。入力層の上段に対象物の画像情報が、また下段にそれを握ったときの手指の形状(体性感覚情報)が入力されます。神経回路は、これらの入力信号と全く同じ信号が出力層から出力されるようにあらかじめ学習を行ないます(ニューロン間の結合係数を調整します)。学習が完了すると、入力された任意の画像情報と体性感覚情報は、上下の回路が交わる中間層で統合され、対象物に対する内部表現が形成されます。この神経回路で最も大切なことは、中間層のニューロン数を入出力層のニューロン数よりも少なく設定しておくのです。このことによって、情報統合の際に不必要な情報が捨て去られ、その懸河、運動に不可欠な情報表現を中間層に得ることができるのです。
 私たちは、大きさの異なる円柱、四角柱、球などをいくつか用意し、被験者に握らせたときの手の形状をデータグローブで計測してデータを収集した後、神経回路の学習を行ないました。その結果、中間層のニューロンの出力値は、対象物の大きさや形に応じて連続的に変化し、また握り方によっても異なる状態をとりました。すなわち、視覚情報と運動情報をもとに反映した表現が中間層に得られました。

4.神経回路による手の形のデザイン
 中間層に形成された表現が適切かどうかを、この表現を利用して、対象物を握るための手の形がうまく計算できるかどうかで評価してみました。
 一般に、ヒトは、一つの物をいろいろな握り方でつかむことができます。脳がどのようにして握り方を選択しているかわかりませんが、ここでは、評価関数(運動の滑らかさ、安定性、操作性などの尺度を定めることによって最適な握り方を仮定します。図2の神経回路モデルは、ある対象物が与えられたとき、その画像情報から握るのに適した手の形をニューロンの並列計算で求めることができます。すなわち、画像情報を表すニューロン群への入力の値を固定し、手の形状を表すニューロン群の状態を徐々に変化させて最適な手の把握形状(評価関数の値が最小となる状態)を実現します。私たちは、安定したつかみ方に対応するある種の評価関数を定めたときに、神経回路がヒトの手の典型的な把握形状を再現できることを計算機シミュレーションで確かめることができました。

5.運動学習による認識と制御

 ヒトは、物を見ているだけでは、その物の特性を正確に理解することができません。自らの手で物に触れ操作することによって、はじめてその特性の多くを知り、視覚情報と結び付けて認識することができます。本稿では、つかんだときの手の形という静的な側面に注目し、視覚系と運動系とをカップルさせたモデルを紹介しました。しかし、より重要なのは、力を含めた運動の動的な側面です。私たちは、次の段階として運動学習を通じて、操作対象の物理的な特性(たとえば、質量、弾性、粘性など)を認識し、運動の制御を行なう研究も進めています。


参考文献


Copyright(c)2002(株)国際電気通信基礎技術研究所