ATRのメディア情報科学


メディアと身体:情報から体験へ



メディア情報科学研究所
片桐 恭弘



 ヒトがサルから分かれて進化してきた過程で、ヒトをサルから区別する大きな要因のひとつとして、人間が外部の情報表現、すなわちメディアを利用するようになったことを挙げることができると言われています。岩の上に絵を描く、粘土板に言葉を刻みつける、これらの行為はいずれも人間の内心の思考や感情を外部に情報表現として取り出して、物理的な媒体(メディア)の上に具体化するものでした。メディアの利用によって、それまで心の中にふわふわと存在していた想念に形を与えて記録し、別の角度から再吟味する、あるいは他者に伝え、共有化することが可能となりました。メディアは、物語、法律、経典などさまざまな形で人間の社会生活や社会制度に組み込まれ、人間の文化の重要な担い手となりました。
 もっとも原初的なメディアはわれわれ自身の身体でしょう。怒ったふりをした顔表情、ピースサインのようなジェスチャなど、身体はもっとも身近な情報表現媒体です。舞踏や儀礼的所作のように高度な表現も可能です。最近着目されている古武道の身体技法なども身体メディアの例と考えられるでしょう。メディアの技術は、粘土板や紙のような静的メディア、映画やテレビのような動的メディアを経て、コンピュータゲームのようなインタラクティブなメディアへと発展してきました。ユビキタス技術によって今やメディアは時空間に拡散しつつあります。このようなメディア技術の進化は、扱う情報量の飛躍的増大を可能としましたが、同時に視覚・聴覚など特定の感覚に訴えるメディアから全身でそして五感全体で接するメディアへと変遷してきました。身体の復権が起っているとも言えます。
 昨今、一見些細に見える出来事が引金となって子供が人を傷つける不幸な事件が頻発し、テレビゲームやネットワーク掲示板など新しいメディアがヒトの正常な発育を妨げるのではないかと懸念する声も聞かれます。文化的人工物であるメディアの進化は、遺伝情報の変異によって引き起こされる生物的進化よりも圧倒的に速いため、メディアの進化が暴走してしまうとヒトが追いついていけないという危惧もあります。
 メディア情報科学研究所では、われわれの体験を新しいコンテンツとして扱うことを目指して身体的なメディア技術の研究を進めています。体験は視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚などわれわれの五感全体を通じて感得し、記憶にとどめ、さまざまな形の表現を通じて他者と共有することによって感動や共感を産み出し、新しい創造をもたらします。体験には具象的で生々しい感覚の側面と抽象的で知的な感性・理性の側面の両方が備わっています。体験を創り出す能力は、われわれがサルから分かれる頃から持っている、物理的空間の中で身体を利用して活動する能力に根差しています。身体に根差したわれわれの認知能力に上手に適合したメディアは人々の間に定着し、それまでには考えられなかった新しいタイプの認知活動・社会活動を可能にしてくれるでしょう。
 メディアの活用は人間に固有の能力です。メディア技術はわれわれに豊かさと愉しさと智慧をもたらしてくれるはずです。新しいメディア技術の提案、メディア技術の社会的実践、メディアを使いこなす人間の認知機構の科学的な解明、これらが手を携えて進歩していくことが望まれます。人間とメディア技術との共生・共進化を目指してわれわれは研究を進めていきます。