−人間情報通信研究所プロジェクト終了
プロジェクト終了にあたって

脳の運動制御理論
−脳の高次機能解明に情報処理の観点から迫る−




(株)ATR人間情報通信研究所 第三研究室長 川人 光男



1.計算論的神経科学アプローチ
 当研究所が設立された1992年には、コミュニケーション、言語、意識などのヒトの高次認知機能が脳科学、神経科学の重要研究対象になるとは予想できなかった。しかし近年、状況は大きく変わり、例えば、ヒトと動物のコミュニケーションの違いの理解、非言語的なコミュニケーションの理解、言語の獲得過程の理解などが、日本の脳研究の長期戦略目標にあげられるようにすらなった。
 その流れを先取りし、脳の高次機能解明に情報処理の観点から迫る高い達成目標を設定し、計算論的神経科学の手法(脳の機能を、その機能を脳と同じ方法で実現できる計算機のプログラムあるいは人工的な機械を作れる程度に、深く本質的に理解することを目指す)により、次の3つの視点から研究を進めた。(1)学習と行動の神経計算原理、(2)情報の生成と分析の統合処理、(3)異種情報の統合機構、である。

2.学習と行動の神経計算原理
 脳・神経系の情報処理における学習と行動の神経計算原理の解明を目指して研究をすすめた。具体的には、学習において、対象とするモデルの入出力特性を逆にしてモデル化する逆モデルの役割を重視し、逆モデルを学習によって獲得することに焦点をあて、制御対象の逆モデル学習についてフィードバック誤差学習という新しいモデルを提案した[1]。小脳の運動制御機構の研究[2]や、人の腕の運動制御機構の研究[3]などに代表されるように、学習と行動の神経計算原理について、小脳の系統発生的に古い部分から中間部分について基本的な理論提案を行った。また、学習機能を統一的に理解する理論モデルの確立を目指し、ヒト小脳における内部モデル存在の脳非侵襲計測を試み、その存在を確認するに至った [4]

3.情報の生成と分析の統合処理
 (1)運動軌道計算の最適理論と(2)順ダイナミクスモデルと逆ダイナミクスモデルを用いた軌道計算とパターン認識、という2つの具体的課題を中心に研究を行った。運動軌道計算の最適理論として、トルク変化最小モデルを提案し、これを検証するため、人がある点から他の点へ多関節腕の運動を行うときの運動軌道規範生成を課題とした研究を進めた。さらに、脳の軌道生成モデルとしてトルク変化最小モデルより確度の高い指令トルク変化最小モデルや運動指令変化最小モデルを提案した。
 また、順ダイナミクスモデルと逆ダイナミクスモデルを用いた軌道計算とパターン認識においては、順逆繰り返しによる軌道生成のモデルによる最適化原理に基づく「見まね」学習モデルを提案[5]、けん玉 学習ロボットによって、モデルの有効性を検証した。実験には人と同じ7自由度を持つ油圧駆動マニピュレータを用い、人のけん玉運動から抽出した小数の経由点を制御変数と見なし、視覚入力装置から得られた試行毎のデータを元に、けん玉タスクが成功するように制御変数を修正した。さらに同一の原理でテニスサーブなどの複数のタスク学習が行えることを明らかにした。

4.異種情報の統合機構
 内部モデル、順逆計算、見まね学習の要素などを統合し、コンピュータグラフィックスで実現した人間型エージェント、及び人型ロボットに複雑な環境と相互作用して適応的な行動を獲得・実行させた。
 また、筋電信号の入力による仮想身体運動モデルの構築を目指して研究を進めた。運動指令変化最小モデルを検討するためには、運動指令から運動軌道への順変換のモデルが必須となる。そこで、表面筋電図から腕の運動軌道を予測するダイナミクスモデルを、生理学データを訓練データとする学習によって人工神経回路網モデルとして獲得した。このモデルは、筋電信号入力による仮想身体運動ヒューマンインタフェースの要素技術となる。さらに、この技術をリハビリテーション医学に応用するための研究を進展させた

5.今後
 人の知性の理解、人のようなロボットに辿り着く道はひどく遠いようにも思えるが、また一方で、視覚や運動制御の研究で明らかになった計算原理が、汎用性や拡張性が最初から保証され、外界との相互作用に根ざした知性を明らかにする期待もある。小脳内で私達が発見し、ロボットによる複数タスクの見まね学習にも用いている、多重の順逆内部モデルが、言語や思考にまで光を当てる可能性もあると期待している。