複雑性の進化
−ネットワークティエラにおける組織分化−

1.はじめに
 私たちは新しいミレニアムへの境界で刺激的な時代を生きています。それは、この数十年にわたって、Mooreの法則に則て、爆発的とも言える計算能力の指数関数的な成長がもたらされた時代です。
 近い将来、豊富な計算能力を背景に、真に人工的な知能の時代の到来を思い描くことができます。しかし、計算能力を単に足し合わせるだけでは知能は生まれません。計算能力が適切に組織化されなければなりません。ハードウェア、特に、集積化技術が計算能力の指数関数的な増大をもたらしました。しかし、その計算能力を複雑な振る舞いに組織化するものはソフトウェアであり、ハードウェアではありません。
 人間の精神や生態系など自然界の適応システムが持つ複雑性は人が創りだしたいかなるものをも遥かに越えています。OSや通信システムなどにおいて膨大な機械語コードの管理が非常に難しくなる一方で、遺伝コードは数十億の基本対によって頑強で順応性の高い機能を見事に実現しています 。
 莫大な計算能力の潜在力を最大限引き出すためには、ソフトウェアやハードウェアの設計においても新しい方法が必要となります。自然界の適応システムの背後にある基本原則を明らかにし、活用できるならば、同様に適応的な複雑性をもつ人工システムを創りだすことができるでしょう。
 本研究では、進化が適応的な複雑性をいかに創りだすかを理解することを追求しています。そして、最初に取り組むべき目標は、進化型の人工システムにおいて、爆発的な複雑性の進化を創りだすことです。

2.ティエラシステム
 オリジナル版のティエラの実験は、ディジタル計算という媒体において自然淘汰による進化の可能性を実証しました。そこでは、環境を共有する“ディジタル生物(自己複製プログラム)”同士の相互作用のダイナミクスによって多様な進化的プロセスが創りだされました。しかし、適応進化がある程度継続した後、ティエラは半永久的な進化の休止期間に入りました。
 アルゴリズムの複雑性を増す例はありましたが、一般に個々の自己複製プログラムは複雑性を増加させることはありません。そこで、私たちは、急速に休止状態に陥ることなく、自己複製プログラムの複雑性が飛躍的に増加する進化的プロセスの創出を目指すこととしました。

3.ネットワークティエラ
 新しい計算パラダイムとしてのティエラの研究は生物学的インスピレーションに基づいています。地球上の生物進化における複雑性の増加は、染色体、真核生物、性そして多細胞生物の起源といったいくつかの“主要な遷移”に帰することができます。そのうち、最も多様な進化は、単細胞生物から多細胞生物への遷移によってもたらされました。
 ネットワークティエラはこの遷移に類似することをディジタルの世界で実現しようとしています。すなわち、単一処理のソフトウェア(単細胞生物)からマルチ処理のソフトウェア(多細胞生物)への遷移です。
 多細胞生物の複雑性は多くの細胞が結びつくだけでは生じません。むしろ多くの細胞がともに協調しつつ機能的に異なる細胞タイプ(例えば、血液細胞、神経細胞、皮膚細胞など)に分化することによって生じます。そこで、本研究では、分化という進化に焦点をおき、最も原初的な分化のレベル、すなわち、二つの細胞タイプからなる多細胞型のディジタル生物を“種”として、この世界を構築します。
 “ネットワークティエラ”という名称はこの実験系を計算機ネットワーク上に構築することに由来しています。ディジタル生物にとって広大な環境を与える必要性からも計算機ネットワークをプラットフォームとしました。しかし、単純にオリジナル版のティエラ実験系の規模を拡大するだけでは、複雑性の進化も、また、休止期間からの脱出も期待できません。ネットワーク環境のもうひとつの利点はそれが本質的にもつ不均一性にあります。ネットワークティエラは優先度の低いバックグラウンド処理として走り、ユーザがその計算機を利用している間は休止状態に入ります。これにより、適応進化を潜在的に促す主要な環境資源であるCPUタイムの時間的かつ空間的なパターンが創り出されます。
 また、ネットワークティエラでは、ディジタル生物がネットワーク上の他の計算機の環境データを集め、そのデータの分析に基づきネットワーク上の計算機間を随意に移動することができます。
 この世界の“種”となるディジタル生物は複製組織とセンサ組織の2つの組織からなり、複製組織は2つの細胞から、センサ組織は8つの細胞から各々構成されます。複製組織の2つの細胞は、母(“種”となるディジタル生物)が娘を創る際、そのゲノム情報(遺伝コード)を半分ずつ複製します。8つのセンサ細胞は各々独自にネットワーク上の異なる計算機のデータを集めます。集めたデータを比較し、8つの計算機のどれが最も好ましい環境を提供してくれるかを決定します。この分析結果に基づき、娘のディジタル生物がその生を受けるべき、つまり、送り出されるべき計算機サイトが決められます。
 進化の結果をどう解釈するかは、ゲノム情報が機械語であるため、大変難しいものがあります。進化した機械語は人によって書かれたもの以上に理解するのが難しいからです。そのため、このプロジェクトの大部分を、ゲノム情報を理解するためのツール開発に費やさざるを得ませんでした。この数年の間、異なる処理への分化の度合いを分析するためのツールを開発してきました。
 処理分化の解析により、センサ処理の比較的複雑な機能が少なくとも2つのタスクに分割され、分割された機能は二組の細胞によって実行されることが分かりました。これは単一のセンサ組織が2つの組織に進化したことを意味し、ディジタル生物における細胞タイプの総数は2から3に増えたことになります。
 これらの結果はネットワークティエラにおける進化のプロセスが複雑性を増加させうることを初めて示したものです。それは多様性のカンブリア爆発の基礎、即ち、細胞タイプの分化における多様性の増加をもたらすものと考えます。

4.複雑性計算の将来
 人工的な知能の創発は、Mooreの法則が予見するように、起こるべくして起こるものではありません。人間が心に匹敵する複雑な情報処理を創造できるかどうかは、証明されてもいませんし、確実なものでもありません。
 私たちは、知的な情報処理を創出する一つのアプローチとして進化を提唱し、ディジタル媒体における自然淘汰と人工淘汰に基づく動的な進化プロセスを構築しつつあります。しかし、得られた進化の結果は極めて限定されたものですし、進化した実体もその遺伝情報が高々数千ビットに限られています。
 進化は、複雑性を生み出すことが証明された唯一のプロセスです。しかし、それは有機媒体において為されたものであり、ディジタル媒体においてではありません。この媒体における進化の潜在力を測る手立てを私たちは未だものにしていないのかもしれません。もし生物進化の潜在力を数桁上回るものを実現することができれば、それは劇的な成功です。しかし、10倍を下回るようであるなら、ディジタル進化はその輝きを失うことになります。
 その意味では、膨大な複雑性に対するディジタル進化の視界は未だ開けていません。ディジタル媒体における進化、その経験において私たちは最も初歩的な段階に留まっています。しかし、継続的な真摯な努力を傾注するのに充分価するほど可能性は大きいものと考えます。



Copyright(c)2002(株)国際電気通信基礎技術研究所