立体視メカニズムの究明



1.はじめに
 人間の持つ二つの眼は、左右に約6cm離れているため、それらの眼の網膜上に写る像はわずかに違います。そしてこの像の違いは、幾何学的に、外界の空間構造に対応しています。この像の違いが、人間の脳の中で処理され、奥行き感を生み出す手がかりになっているということは、紀元前に書かれた書物のなかでも指摘されており、実験的にも古くから確かめられています[1]。この人間のメカニズムを応用した三次元ディスプレイシステムも、19世紀の初めにイギリスのウィートストーンがミラー式ステレオスコープを発明して以来、多くのものが提案されています。現在では、偏光板やシャッターを用いて左右眼の像を分離して呈示する方法がよく使われます。左右眼用の小さな二つのディスプレイを搭載した頭部装着型のものも実用化しており、バーチャルリアリティシステムなどに使われています。
 このように、両眼視差は幾何学的に外界の空間構造と対応しており、三次元ディスプレイも実用化していると聞くと、網膜視差処理のメカニズムに関する研究はもう必要ないと思われるかも知れません。しかし、これから述べるように、私たちが脳の中に持つ機構は、対象の両眼視差を幾何学的に対応した奥行きに変換して知覚的な空間位置を決めているだけではありません。もっと賢く、両眼視差の情報を符号化しているのです。残念ながら現段階では、その符号化の方法が完全に理解されているとは言えません。しかし、それが解れば、幾何学的に正しい像を呈示することだけを目指す現在の三次元ディスプレイが持っている多くの問題点、例えば、長時間の利用による疲労とか、情報量が倍になること、奥行き感の不完全さ、などを解決でき、三次元ディスプレイは大きく進歩すると思われます。

2.両眼対応点−両眼視差検出の基準点−
 両眼視差の量を決めるには、左右の網膜上の対応点、すなわち両眼視差ゼロの位置を、まず知ることが重要です。この両眼対応点を幾何学的に決めることは容易です。二つの眼球が全く同一であり、それぞれが地球儀のような経度と緯度を持つと考え、同じ経度と緯度にある点同士を対応点とします。図1の点線のように両眼で一点を見つめた場合、注視点と両眼を通る円上及び注視点を通る垂直線上の点は全て両眼視差ゼロ、すなわち対応点上に像を作ります。
 しかし、人間にとっての左右網膜上の対応点は、幾何学的な対応点から横方向にずれていることが知られています。人間にとっての対応点とは、左右眼の像が同一位置に“知覚される”ということです。
 私たちは、同様な判断基準を使って網膜全域の対応点地図を作ることを試みました。この結果、人間にとっての対応点は、横方向だけでなく縦方向にもずれていることが分かりました。そしてこのデータから、全ての点が網膜上の両眼対応点上に像を作る面は、外側が手前に湾曲して上方が遠方に傾いた形状(図1の実線)で距離が25〜50cmほどになることが推定されました。この面が両眼視差ゼロの面、すなわち両眼視差検出の基準面です[2]
 では、なぜ両眼視差ゼロとなる面がこのような形状なのでしょうか?
 あくまで推測ですが、これは経験的に決まっていると考えられます。両眼視差ゼロの面の形状と距離は、人間が通常生活する中で興味ある視覚対象が多い位置(本を読んだり机の上で仕事をする時の視覚対象の位置)と対応しているようです(注:被験者は、小さい頃から勉強好きでよく仕事をする研究者たちでした)。つまり、この面の近傍に視覚対象がある確率が高いため、この面に対応した点を中心に両眼視差を検出する細胞を配置することによって効率的に視差情報処理を行っているのです。

3.垂直視差の分布と奥行き知覚
 左右眼像の横方向のずれ(水平視差)と外界の対象の奥行き量が幾何学的に対応していることは、二つの眼が横方向にずれていることを考えると容易に理解できます。左右眼像の縦方向のずれ(垂直視差)も、対象の距離と方向に幾何学的に対応しています。これは、自分の正面から(例えば)右にずれた対象から右眼までの距離は左眼までの距離より近いため、その対象が右眼に作る像が左眼に作る像より大きくなることを考えると、感覚的に理解できます。そして人間の目の前にある一枚の平面はその距離に固有な水平視差と垂直視差の分布を持つことになります(図2)。
 私たちは、この視差の分布と奥行き知覚の関係を調べています。その結果、図2の視差の分布の水平方向の成分だけを取り出して観察した場合は、外側が遠方に湾曲した面が知覚されることが、そして垂直方向の成分だけを取り出した場合は、外側が手前に湾曲した面が知覚されることが明らかになりました。水平と垂直の両方の成分がある場合には、当然平面が知覚されます。つまり、水平視差による奥行きが垂直視差による奥行きによって相殺され、距離にかかわらず平面を平面であるように知覚できるようになるわけです。
 垂直視差と奥行き知覚の関係をもう少し詳しく調べてみると、現実にはあり得ない垂直視差の分布からも、知覚される面の奥行き形状が変化することも分かりました。例えば、画面の右側で左眼像が右眼像より大きくなるようなパターン(図3左上)からは外側が遠方に湾曲した面(図3左下)が、画面の右から左に垂直視差が徐々に変化していくようなパターン(図3右上)からは上方が手前に傾いた面が(図3右下)知覚されます[3,4]。これらの場合では、垂直視差量と奥行き量は、水平視差の場合のように単純には対応していません。図3左の場合は、ある領域内の平均の垂直視差がその領域の面の“傾き”と対応しています。また、図3右の場合は、視野全体の垂直視差の平均値と個々の水平視差の差が奥行き量に関与しています。この垂直視差パターンは、回旋眼球運動(眼の視軸の周りの回転、表紙参照)も引き起こします。

4.おわりに
 今回述べた例からも分かるように、両眼視差から三次元構造を再構築するための機構は、幾何学的には必ずしも論理的、効率的ではないようです。しかし、現実にあり得ない視差の分布からも奥行き感が生じるような機構を持つことは、一見意味がないようでも、人間が空間中を行動し生きていくという目的のためには、より効率的で測定誤差に強いという利点があるのでしょう。
 いつの日か、人間の空間知覚機構が完全に理解され、「幾何学的に正しい二枚の二次元像を再現する」現在の三次元ディスプレイに代わって、「知覚的に正しい三次元構造を再現する」本当の三次元ディスプレイを、我々が手にすることができることを信じて、これからも研究を積み重ねていきたいと思います。
 本稿で紹介した研究は、第五研究室のPhilip Grove氏(York Univ.)、福永克巳氏(奈良先端大)との共同で行われました。

参考文献


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