“微分”と“積分”




(株)国際電気通信基盤技術研究所 顧問 葉原 耕平



 表題だけ見て「これは大変だ」としり込みしたり、毛嫌いしたりしないで下さい。難しい数学の話をしようというのではありません。ただ、他にピッタリした表現が見つからなかったというだけのことです。私の好きな“The best is the simplest”の考え方の一環の話です。

(1) 塵も積れば山となる − 先人への礼儀 −

 平板なタイトルですが、これは研究の進展にも当てはまる、という話です。多くの研究は日々の研究成果の積み上げの連続です。前に「レポートの書き方」という話を書きました(ジャーナル31号)。その時、ある期間毎の報告にはその前からのキーワードのチェイニングが大切だと言いました。これは取りも直さず、それまでの成果を引き継いでそれを発展させるというプロセスそのものの表現でもあります。「前期までの成果はこれこれ、今期のプラス分はこれこれ」という切り分けです。ところが、現実には現時点でのトータルの話に置き換えてレポートしてしまう場合がよく見られます。これによって確かに現時点での様子は分かります。しかし、今期何が進んだのか、と言うことを知ろうと思えば前期のレポートを引っ張り出して引き算をして見なければなりません。
 図を見て下さい。くどくど言う必要は無いでしょう。ある短期間の成果はいわば「微分値」です。これがそれまでの「積分値」に積み上がり、その結果が新しい「積分値」になります。大切なことは、この両者の関係あるいは違いを陽に意識しすることです。「微分値」はその都度の進歩です。「積分値」はそれを含めてのトータルの到達点です。ここでもうひとつ大切なことは「過去の積み上げ」というのは何もその人個人の成果に限らない、と言うことです。いやむしろその多くは先人の仕事の累積でもあります。極端に言えば、たとえば現代の多くの工学の基は、ニュートンの力学やそれこそ「微分積分学」に負うところ極めて大です。電磁気学もそうです。何の不思議もなく使っている「オームの法則」も未だ発見されておらず、電圧や電流、抵抗などの概念が確立していなかったなら、そしてそれらを自分で探求しなければ何事も始まらないとしたら‥‥、これは大変なことです。

 そこまで遡らなくても、自分だけの力ではたかが知れている、ということがお分かりでしょう。そうだとすると、自分の仕事つまり微分値のベースとなった多くの先人の仕事を正当に評価することはごく自然なことでしょう。したがって、たとえば論文ひとつ書いてもそういうことはきちんと述べておくべきだと私は思います。参考文献欄がその人やそのグループの業績で大半が占められているような仕事は、余程画期的で前人未踏の分野のものか、独り善がりかのどちらかですが、大半は後者の公算の方が大きいと見るのが普通でしょう。そういう書き方の論文(仕事)は私はあまり信用しないことにしています。
 もうひとつ、せっかく先人の仕事を紹介しても「それにはこれこれの欠点がある・・」そして「本論文はその欠点を改善する‥‥」などの言い方をよく見かけます。要は自分の仕事を際立たせたいためにまず他人の仕事にケチをつけることから始まっているのです。さて次はどうでしょうか。幸いに誰かがその仕事を引用してくれたとして、今度は自分の仕事が「それにはこれこれの欠点がある」と書かれる伏線を仕込むことに相成ります。極めて単純なことです。そろそろお分かりでしょう。「先人がここまで立派に積み上げてくれている。私はそれに以下の事柄を付け加えさせていただく」私はそういう文化もあってもいいのではないかと思っています。競争社会には馴染まないかも知れませんが。
 とはいうものの、先人の仕事(とその集積)を何も100パーセント鵜呑みにするのがいい、というのではありません。むしろその逆です。これらの話は何も研究に限られたことではありません。大きな組織で前例を墨守する、などはその悪例でしょう。自分が乗っかろうとしている土台がしっかりした間違いないものかどうか(これは多分に主観的かも知れませんが)は検証しておく(悪く言えば疑う)ことが大切です。図に示したUターンの矢印です。そこにまた新しい、むしろ革新的な進歩が期待されます。それをどこまで遡って、またどの範囲まで再確認するか、それはそのテーマと当人の力量に依存します。あまりにも過去を詮索しているとそれだけで人生が終わってしまうかも知れません。やたら参考文献が多いのも、そういう意味では問題かも知れません。

(2) どこまで立ち戻るか?

 上述のように大きな飛躍、発展には一旦Uターンすることが効果的な場合があります。その際、どこまでUターンするのがいいか、私は原理原則的なところに立ち戻るのが望ましい、と思っています。例を述べます。それは飛行機です。昔、空を飛びたい一心で鳥を真似て腕に羽を付けバタバタさせるなどということが試みられましたが、うまく行きませんでした。鳥は何のために羽を動かしているのか、それは原理が分かって見れば推力と揚力を得るためです。その結果空中を飛ぶことができます。初期の飛行機はプロペラで推力を、翼の仰角で揚力を得る、という巧妙な仕組みでそれを実現しました。鳥はその両者を羽を動かすことで実現しているのです。こうして、原理が分かればあとは鳥の模倣を離れて独自に技術が進んでいきます。つまり、人間は推力と揚力を金属などで、鳥は筋肉などで実現しています。同じ原理を全くといっていいほど違う仕組みや材料で実現しているのです。
 ATRでは発足当初からキャッチフレーズのひとつとして「人や生物に学ぶ」ことを標榜してきました。しかし、その際何を学ぶか、これが肝心です。鳥が飛ぶのは推力と揚力に違いない、そういう原理的なことを研究と洞察から学び取ることです。羽をバタつかせる、という皮相的な真似事ではありません。このことは、研究者に口をすっぱくして言い続けてきました。そうはいうものの、始めからそういう原理原則が分かっているわけではありません。いや、むしろ分かっていない場合が大半でしょう。だからこそ研究が必要になるわけです。そのための手段としてまずは真似をして見る、と言うことも必要でしょう。しかし、真似をすることに夢中になり、目的を取り違えることのないよう、ことに上に立つ人は注意深く見守ることが肝要だと思います。

(3) 飽和する技術、進歩する技術

 もうひとつの図を見て下さい。これは航空機の発展を模式的に示したもので、説明不要で一目瞭然でしょう。多くの技術はある程度から先は改良改善の努力の割にはそれに見合った進歩が見られなくなります。プロペラ機の場合もそうです。それはプロペラ自身が空気をかき分けることによって推力を得ている、という原理的な限界があり、すでにその限界に近づいてきているからです。それに対してジェット機は噴射の反動という全く違う原理で推力を得ており、音速を超える可能性を実証したのです。
 誤解を招くといけませんので、敢えて付け加えますが、私はプロペラ機の改良に類する努力が全く無駄だと主張しているのではありません。ある条件の範囲では(例えば音速ほどには早くなくても小回りが効く方がいいなど)、それが効果的な場合もあります。そして爪に火をともすような努力の末、それなりに成果を得ることもあります。日本人はむしろそういうことにも長けているとも言えましょう。しかし、ATRのような先端的な研究を使命とするところではそれはそぐいません。例えて言えばプロペラに代わるジェットの原理を見出す、あるいはプロペラの限界を早期に指し示すという、要は後々の「立ち戻るべき」基盤となる原理的な考えの確立に向けて努力することが求められているのではないでしょうか。そして願わくば後世の人達がさして多くはない参考文献の中でも常にバイブルのように取り上げてくれるものであって欲しい、と念願する次第です。