今を愉しむ
(株)ATR音声翻訳通信研究所 代表取締役社長 山本 誠一
ATRには年間1万人を越える方が見学に来られます。1万人を越える方々ですから、出資会社からご依頼のあった顧客等の一般の方々、関連分野の研究者、外国からの調査団、報道機関や雑誌社の方と、実にさまざまな分野の方が来られます。「音声翻訳」という研究テーマは分かり易く、研究テーマ名を聞いただけで誰もがシステムをイメージできるということで、多くの場合、見学のコースに選ばれます。研究成果を広くご説明できる機会として、貴重な機会です。昨年に日英双方向の音声翻訳システムATR-MATRIXあるいは日本語を英語、ドイツ語、韓国語、中国語に各々音声翻訳する多言語音声翻訳システムを開発し、システムのデモを行うようになって、研究成果の説明は一層容易になりました。
多くの見学者からいただくご質問として、「何時頃実用化できますか」という質問があります。一般的なお答えは、「ATRは基礎研究の研究機関で、実用化は直接担当していないので、正確なところは申し上げられませんが、種々の技術の未来予測では2010年から2020年頃となっています。ただ、現在の技術の進歩から見ると、個人的にはより早い時期に実用化できるのではないかと考えています」と、言ったところでしょうか。
かなり曖昧な返事だと自分自身でも思います。未来予測はもともと困難なもので、過去にも多くの技術の未来予測がなされ、的中したもの、的外れなもの、さまざまな結果が出ていることから、どうしても曖昧な返事になってしまうという面があります。が、それとは別に、「音声翻訳システム」というものに持たれるシステムイメージが質問者によって大きく違っていることも、その要因のひとつです。海外旅行での買い物や交通機関の予約の際に使用する携帯型の通訳機のイメージから、講演会での同時通訳のイメージまで、さまざまです。
音声翻訳は、言葉と言葉、すなわち言葉によって規定される物事の表現方法の違いを変換する技術です。単純な語句の置き換えで済む単純な場面から、文化にからむ複雑な面を考慮する必要性が生じる場面まで、多くの課題を含んでおり、システムイメージによって技術課題は異なってきます。
ATRが発足して、音声翻訳技術が研究テーマのひとつとして選択された頃は、夢の音声翻訳技術であって、システムイメージが具体的に検討されることは少なかったと思います。それから、地道な基礎、基盤研究が進み、音声翻訳技術もシステムイメージによって、その実現の困難さの度合いが具体的に検討できるような段階に達したように思われます。誰が、どのような状況で、どんな用途に使用するかといったシステムイメージにより、技術的な課題の重みやあるいは実現の困難さが違うといった状況です。
音声翻訳が全く未知の領域技術であった頃は、極めて困難な課題にチャレンジしているという精神的な高揚がある反面、研究テーマの選択に実用化の際の問題も考慮する必要がないといったある種の気安さがあったのも事実だと思います。現状はどうでしょうか。音声翻訳技術の研究を進める際にも、実用化された場合の問題が少しずつ関連してきており、基礎研究所としてのATRにとっても個別研究テーマの設定や研究成果の説明の際に、この点を考慮する必要も現れてくると思います。機能を絞り込んだ商品が現れ、それとの違いを説明する必要に迫られるということも考えられます。
基礎研究に実用化の足音が聞こえてくると、思わぬいろいろな条件が重なり、その結果さまざまな波風が立ち、基礎研究に従事していた者には、時には突風と感じられることもあります。何時かは風を吹かしたいと思っていたとしても、時にはそれが思わぬ方向に吹くこともあります。しかし、さまざまな風をそれなりに心地よいと観じて、今を愉しむ気持ちも大切です。