聖徳太子の耳より優れた耳、ソフトウェアアンテナ
−次元拡大FTFアルゴリズム−



1.干渉波の溢れるモバイル通信環境

 今、まさにモバイル通信の時代です。奈良のような地方都市であっても、街行く人の半数近くは携帯電話やPHSの端末をもち、その多くは電車や車の中で、さらには歩きながら話しています。加えて、インターネットの普及に後押しされてモバイル通信をもマルチメディア化しようと研究が進められています。すなわち、これまで携帯電話やPHSは音声の電話サービスが中心でしたが、これからのモバイル通信では音声に加えて高速ディジタル通信を行おうというのです。これまで、比較的高速といわれたPHSでも32kbit/sでしたが、これを100倍近く高速化して数メガビットのモバイル通信を実現するため研究が進められています。そうなれば、モバイル環境でも有線系に近いサービスが受けられることになります。
 この電波を利用したモバイル通信は、電車の中など何処にいても届くという反面、届いて欲しくない場所へも届く可能性が大きいのです。すなわち、他人の電波に干渉してしまうのです。この干渉はトランシーバでは、「混信」として良く知られています。加えて、マルチメディア通信で扱うメガビットクラスの高速信号を電波を用いてやり取りする場合、電波が壁や天井に反射・回析することで発声するマルチパスフェージングにより著しく通信品質が劣化します。これは、遠くの壁での反射を含むような電波経路は遠回りをしているため、その経路を経た信号が到着した頃には、反射の無い電波経路からは次の信号が到来しており、直接経路から来た電波にとっては干渉となってしまうのです。  このように、モバイル通信環境は干渉波が溢れており、高品質なマルチメディア通信の実現を困難にしているのです。

2.ソフトウェアアンテナ
 干渉波に溢れ、さらに端末の移動にともなってそれが刻一刻変化するモバイル通信環境で、高品質な通信を実現する手段としてATR環境適応通信研究所では「ソフトウェアアンテナ」を提案してきました。ソフトウェアアンテナは干渉波が溢れる環境の中で、アンテナの指向性をダイナミックに制御して、必要な信号だけを取り出すことにより高品質な通信を実現します。これは、アンテナへある角度から到来した信号だけを取り出し、それ以外の角度から来た信号は受信しないというアンテナの指向性(入射角度特性)を上手に利用することで可能となります。加えて、ソフトウェアアンテナの最大の特長は環境の変化に適応して、アンテナの指向性制御アルゴリズムや指向性形成部の構成自体を変化させることで、通信品質の最適化を図る点にあります。聖徳太子は7人の言うことを同時に理解したと言いますが、ソフトウェアアンテナならば原理的に何人いても、またどのような環境(例えば高速移動中)でも必要な信号だけを最適な条件で受信することができます。このような離れ業ができるのは、ソフトウェアアンテナがアレーアンテナで受信した信号を一旦、ディジタル信号に変換してからディジタル信号処理に基づいてビーム形成や指向性制御を行うからです。そして、現在ではソフトウェアアンテナの適応領域を広げる、或いはより高品質な通信を行うため、ビーム形成器の構成方法やビーム制御アルゴリズムの要素技術の研究を進めています。これは、「基底関数(要素技術)が増えれば、エネルギー(伝送誤り)をより低くできる」変分原理とも相通じるものと考えます。

3.遅れた波を取り込む
 マルチメディア通信をより快適に行うため通信速度を上げていけば、それに比例してマルチパスの影響が大きくなります。この干渉波をすべてキャンセルするにはアレーアンテナの給電点の数、すなわちアンテナの素子数を増やして行く必要があります。素子は電波の波長の半分程度の間隔で並べる必要があるので、素子数の増加にともない大きな場所を占有することになり、結果として受信機の装置規模を大きくします。そんな大きなアンテナを付けた端末を持ち運ぶ人は余程の力持ちの人だけでしょう。そこで逆転の発想として、この遅れた波(遅延波)を取り込むことを考えます。遅れたといっても元を正せば同じ所からの送信信号なのですから、うまく取り込めればそれだけ多くのエネルギーを得ることができ、信号のSN比(信号対雑音電力比)を高めることが可能となります。具体的には図1に示すようにディジタルフィルタを組み合わせて実現することができます。ディジタルフィルタは時間軸上の操作を行いますので、空間軸上の信号処理をするアレーアンテナと組み合わせたこの構成は、時空間信号処理を行っているといえます。この構成は見方を変えるとビーム形成器が各ディジタルフィルタの乗算器の数ぶんあり、各ビーム形成器の出力を時間合わせして合成しているとみなせます。つまり、各ビーム形成器は直接波だけの取り込みや、遅延波だけの取り込みを行い、最後の加算器により各ビームの出力を合成します。加えて、うまく分離できず合成信号に残留した遅延波成分を取り除くため、最終出力信号の判定値をディジタルフィルタを介して帰還することで、判定帰還型等化を行っています。これにより、SN比を最大にした信号を復元することが可能となります。

4.移動端末への高速追従
 図1
に示した構成をとることで、遅延波までもうまく取り込んで品質の高い通信を行うことが可能となりますが、ビーム形成器の数が増えたためこのビームの形を制御するアルゴリズムが複数になるという問題が発生します。具体的には各ディジタルフィルタのタップ係数(各乗算器の信号以外の入力)の制御を行う適応アルゴリズムの演算量が大きくなります。一般に、制御すべきタップ係数の数が増えるに従って、適応アルゴリズムの収束が遅くなり変動への追従性も低下してきます。そのため従来、アダプティブアレーでは係数の制御にRLS(Recursive Least Squares)という高速な収束特性を持つアルゴリズムがよく適用されてきました。しかし、このアルゴリズムは係数の数の増加につれ急速に演算量が増大します。その場合、1つの信号を処理するこめの演算量が増大するためスループットが低下し、逆に低速の信号しか扱えなくなるという皮肉な現象が発生します。従って、より低い演算量で高速な収束性を得ることが重要な研究課題となります。そこで、我々はRLSアルゴリズムと同様の特性を持ちながら、遙かに少ない演算量で構成できる「次元拡大FTF(Fast Transversal Filter)アルゴリズム」を提案しています。このFTFアルゴリズムの収束特性を図2に示します。同図から次元拡大FTFアルゴリズムがRLSアルゴリズムとまったく同一の高速収束特性を持つことが分かります。ところが次元拡大アルゴリズムは時間軸だけでなく、アンテナの素子方向へもアルゴリズムの次元を拡大することで、逆行列演算や行列演算なしに最適解を逐次的に求めるため、RLSアルゴリズムに比較してはるかに演算量を低減できます。実際演算量はタップの数に正比例して増大するのみです。これは収束は非常に遅いけれど演算量の少ないLMS(Least Mean Square)と同じです。つまり、次元拡大FTFアルゴリズムの特長は(1)RLSと同一の高速な収束性、(2)演算量の少なさにあります。高速収束性はモバイル環境の変化への高速な適応を可能とし、演算量の少なさは信号の高速処理を可能とします。従って、次元拡大FTFアルゴリズムならば高速信号を処理できるため、図1の構成に適用することによりマルチパス波の多いモバイル通信環境でも高品質な高速通信を実現することが可能となります。

5.おわりに
 ソフトウェアアンテナを構成するアルゴリズム・構成群に新しい要素を加えることができ、その適用領域がさらに広がったと思われます。しかし、最初に述べたように干渉は遅延波だけではなく、混信を生む他人からの信号もあります。そこで、他人からの干渉の補償法、加えてソフトウェアアンテナとしての特性もこれから研究していきたいと考えています。


参考文献


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