結起承転




(株)国際電気通信基盤技術研究所 顧問 葉原 耕平




 今回はまず表題を注意して見て下さい。何か変だと思いませんか。そうです。一見「起承転結」のようですが最後の「結」が冒頭にきているのです。私の造語です。ATRには大勢の外国人研究者が参画しており、彼らと話し、議論するのは日常茶飯事です。国際会議も増えました。外国人(ここでは主として欧米系)の発想と日本人のそれとの違いを認識しておくことはお互い無用の誤解やイライラを避ける上で有効です。今回はその手段について私のつたない経験を述べ、読者の皆様の参考に供したいと思います。

(1) 論文の「あらまし」は前後をひっくり返す
最初は論文の「あらまし」などの書き方のコツです。多くの日本人の書く「あらまし」や「まえがき」は「そもそも論(起)」から始まり最後に「故にかくかくしかじか」と結論を述べます。「起承転結」が良しとされます。しかしこれは多くの西欧人のメンタリティとは相性がよくありません。国際的に多くの人に理解を求めるにはまず結論を述べることです。「この研究では○○を明らかにした」「本論は△△を提案する」などと。次にそこに提示したキーワードをブレークダウンして述べるのです。具体的には日本的センスで書いた「あらまし」の最後に書いた結論の部分を冒頭に持ってくるのです(これにともなって若干の手直しは必要でしょうが)。これだけの作業で、ことに外国人は安心して読み進んでくれます。これは前回述べた「頂上から眺め直す」ことと軌を一にします。


 同じように外部への説明資料は最重要かつ短いものから段々と詳細化したハイアラーキでまとめることが効果的です。報道発表はその典型です。ここでも二人称が活躍します。もし記者さんに数行しか書いてもらえないなら最低限これ、さらにもう何段か割いてもらえるならこれとこれ、という具合です。記者さんの立場で考えればこんなに助かることはないでしょう。そしてこちらの意図もより正しく伝わります。それにはもっと適切なキーワード、キャッチフレーズを考えねばならず、まとめる方の頭の整理にもなります。その仕事のエッセンスがヘッドラインの数語に集約されるわけです。もっとも、記者さんの腕の見せ所を先に奪ってしまう危険もありますが。
 現実的には、一般紙では読者の大半が(身近な家族などを想定して下さい)無理なく理解できるような情報を提供しなければなりません。でないと、折角のすばらしい仕事でも取り上げてくれないかも知れません。記者さんが理解するまでに七転八倒するような専門語がぽんぽん出てくるなど論外です。取り上げて欲しくないために発表するなら別ですが、一方、比較的専門的な業界紙向けにはそれなりの詳細を提供して紹介してもらえるよう工夫が必要です。これらは別紙などで、それもさらに階層化して記述するなども有効でしょう。このようなことはちょっと考えれば容易に想像できることなのですが、現実にはなかなかそうは行かないのです。私はやむを得ず、しばしば直接指示して報道発表の原稿を直してもらいました。大抵の場合「結」を先に打ち出すことで随分変わりました。

(2) 外国人とのやり取りと"YES"、"NO"
メンタリティとの違いと言えば、ATRでも添削をお願いしているK社の社長さんと話をしたとき、私が「アメリカ人は人と会うとき、事前に目一杯調べて頭の中を一杯にし、一連の質問を通してそれらに対するyes/noの答で次々に切り分け、自分の仮説のどこかにもっていこうとする。それに対して日本人はまず頭を空っぽにして相手の話を聞き、後でよく考える、ということを聞いたことがあるが、あなたはどう思いますか?」と尋ねたことがあります。彼は「なるほど、言われてみれば(日本人はともかく)アメリカ人は確かにそうだ。だから、早く頭の中を軽くしたいので、せっかちなんだ」と言いました。これは主語、述語、・・の順、つまり主題について"is"なのか"is not"なのかを最初にはっきりさせるということと同じメンタリティだと思います。対照的に日本語ではそれが最後(文末)なのです。
 ですから、西欧系の人たちは質問に対して最初にyes/noが無いとイライラしがちです。しかし世の中yes/noで割り切れることばかりではありません。ですから、私は明快にyes/noが言えるときはもちろんそうしますが、大抵、最初に"My answer is 'yes' and 'no'."とやります。そして「かくかくしかじかの場合は"yes," otherwise "no"」とやるわけです。これ、国際会議やら来客対応の時のコツです。ほとんどの場合、条件次第でyes/noどちらもありますから。ATRの来客対応は大体これでやってきました。というようそうせざるを得ないのです。ATRの複雑な組織や運営法は、どんな質問であってもまずyes/noのどちらかで答えられるような単純なものではありませんから。
 このやり方は一見ずるいようですが、最初に「問題はそれほど単純ではありませんよ」ということを暗示することになり、相手は大抵苦笑しますがyesともnoとも言わないよりはよほど安心するようです。さらに都合がいいことは、これによって相手は最初の切り分けができないので暫くは2→4→8という選択肢の広がりをすべて想定せざるを得ず、それ以降の質問のストラテジーをその場で再構築しなければならなくなる、ということです。そうすると、私の経験では途端にベースが変わり悪く言えば矛先が鈍ります。こうなれば後はこちらの土俵です。もっとも常にこうだとは限りませんが。
(3) "a"と"the"の根っこ
西欧人の、できるだけ早期に最初の選択肢のどちらかを知りたい、決めたい、という発想は例えば一番初歩的で、にもかかわらず我々日本人は大変不得意な冠詞のaとtheにも現われます。例えばマーク・ピーターセン著「日本人の英語」(岩波書店)という本はaとtheなど中学英語で教わった教科書通りのことの本質をあらためて認識させてくれます。当たり前のことですが、彼らにはtheとくれば「お互いに間違いのない同じ対象のことで、あれかこれかという曖昧さはない」という単純なことです。曖昧さのあることとないことを最初にはっきり切り分けておこうというわけです。ですから論文でも最初はaで、次に出てくるときは「さっき話題にした」という共通認識の上でtheとなる、という至極単純なことです。最初にtheといっても、which Prof. A found,のように修飾されていて「ああ、そういう特定の」ということであれば彼らも安心するとか。日本人が曖昧さを残したままthe、で通すと、いつwhich Prof. A found,のような限定の話をしてくれるのだろうかと、最後までイライラする、というのです。なるほど。最後までそちらに神経を集中させて肝心の話題からそらせてしまおうという魂胆には向くかも知れませんが。
 ついでですが、国際会議で日本人のプレゼンテーションは昔に比べて格段に上手になってきているように思います。ただ、質疑に移った途端にトーンが変わってしまい、質問者はイライラしながら聞いている、という場面にしばしば遭遇します。答え方が例によって「起承転結」型で、長々と周囲条件、時には言い訳がましい説明から始まるからです。彼らはまずyesかnoかを知りたいのです。だからこそ私の一見ずるいやり方、最初に"My answer is 'yes' and 'no'."が大活躍するのです。

(4) 解析型と総合型
さて、西欧型発想では質問を通してyes/noで次々に切り分ける傾向があると述べましたが、ここで二つに切り分ける、というのは必ずしも対象が二つしかないから、ということではありません。最初の段階ではいくつかの話題の内、それ以降に取り上げる(残す)話題とそれ以外の線引きをするため、というようなこともあります。しかし、「取り上げる/取り上げない」を区別する意味ではやはり二者択一です。よく会議で最初にagenda(議題)を議論しますが、ここで乗り損なうと復活は極めて困難です。そして、次の話題はその細分化の場合もあれば、取り上げ方について候補をいくつかに絞り込む、というためのものであるかもしれません。つまり第一の質問は話題に関して、次は視点について、というような具合です。
 いずれにしても問題を局在化する方向、別な言葉で言えば解析的であると言えるかも知れません。それに対して、われわれ日本人の発想はどちらかといえばさまざまな要因を取り込み、膨らませていって最後に総合判断に結び付ける、という傾向があるのかも知れません。そういう意味では対照的です。また、解析的発想に基づくものは一見きれいであっても、前提(仮定)を次々に限る結果、汎用性に欠けるきらいがないとは言えませんし、総合型は何となく漠としていて融通無げということもあるかも知れません。そして現実問題の解決には多分その両方のやり方の畳み掛けが必要でしょう。
 それよりも、より本質的だと思うのはこのような発想法の違いの源です。ひとことで言えば文化の違いかもしれません。それらはここで1行や2行で論じられるようなものではなく、その根底は宗教、哲学そしてそれらさえも歴史風土に根差したものであるかもしれません。一口にグローバル化といっても、それを考えると容易なことではありません。いや、むしろこういうことをよく認識しないでお互いステレオタイプの表面的理解だけでスタートすると、かえって亀裂を大きくする危険さえあるかも知れません。
 ATRの研究者が「ヒト」や「自然」の巧妙さの片鱗を解きほぐしてくれつつあります。それが私にこのようなことをより深く考えるきっかけを与えてくれました。