二人称の勧め(その2)




(株)ATR国際電気通信技術研究所 顧問 葉原 耕平



(6) レポートの書き方 − キーワードのチェイニング

 前回ATRでも対外的にレポート類を出すことがしばしばあることを述べました。典型的なのは定期的な進捗状況報告です。これを材料に二人称とはどういうことか、少し具体的に述べてみます。
 例えば4半期毎の進捗報告の場合、よく見られるのはその期間での特記的な事柄だけを書き連ねるやり方です。いわく「今期はAとBの成果が得られた」そして次の4半期には「C,D,Eの成果が・・・」と。確かにそれらは事実として間違いではないでしょう。しかし、読む方の立場では最初のAとBはその後どうなったのか、C,D,EはA, Bとはどういう関係なのだろうか、など即座には理解しかねるのが普通です。加えて、書く方は自分の土俵の中ですからすべてが頭の中に入っていることばかりでしょうが、多くの場合相手はそうではありません。「前回の資料を見りゃいいじゃないか」というのは書く方の身勝手です。複数の人や組織を担当している相手のような場合、過去のことを克明に覚えていてくれると思う方が間違いです。それから自分達の成果に酔って勇み足をすることがあります。いわく「○○を完成した」。こんな原案に出会った場合私は質問します。「ああ、完成したの。それはよかった。それじゃあもう後は予算は要らないね」と。すると大抵の場合、大慌てで「いえ、違います。まだ予備段階です」などなど。
 そこで私が口を酸っぱくして言ってきたことを改めて述べておきます。二つあります。一つはレポートからレポートへ同じキーワードを引き継ぐこと、もう一つは一見官僚的・法匪的に思われるかも知れませんが、用語を慎重に選ぶことです。半ば具体的に述べます。最初のレポートで「大テーマAでは引き続きαの実験を継続しほぼ予定通り最終データ[ア]を採取した。βに関しては新しい方法論「ウ」を発案するなどの進展をみた。またγという新概念を見出し、新たにサブテーマとして設定した」と書いたとしましょう。次回は「αに関しては前回報告の最終データ[ア]と前々回報告のデータ[イ]と合せてまとめを行い、サブテーマとしては終結した。βに関しては前回報告の方法論「ウ」で具体的検討を進めた。γについてはテーマの展開に大きな進展を見た」など、同じ用語、ここではα、β、γやア、イ、ウなどを繰り返し、繰り返し使う、つまりチェイニングしていくことです。そうすると読む方も仮に記憶があいまいになっていても、「そうそう、この用語前にも何度か見たな。これがキーなんだな」ということでスムーズに理解が進むというわけです。
 ところが現実には、ただ「今期はデータ[ア]を採取し、また方法論「ウ」を発案した。さらに新概念γを見出した」とだけしか書かない場合が多いのです。これでは全体の中の位置づけがよく分かりません。それではと前回のを見るとここには「データ[イ]を採取した」としか書いてないという次第です。データ[ア]とデータ[イ]がどういう関係なのかなど第三者には知る術がありません。もちろん、書いた本人にはよく分かっています。そしてこれは「どうすれば相手を困らせることができるか、分からせてたまるか」という意図で書いたのと結果において違いはありません。なぜこういうことになるのか。くどいようですが、それは一人称でしか考えない、書かないからです。
 二点目の『用語を選ぶ』というのは、別な言葉で言えば「完了形」、「進行形」などをはっきりさせる、ということです。そのためには、「完了した」、「完成した」あるいは「進捗を見た」、「進展した」、「新たに・・・した」などの用語でフェーズを明示することです。前二者はその次からはもう登場しません。三番目以降は「引き続き・・・」などで受けてその後の進展を述べることになります。
 ここまでの話では何と形式に捉われることか、と思われたかも知れません。しかし、私の本当の狙いは、このような頭の訓練で論理的な思考、ことに研究フェーズの自覚、そして物事の本質を見抜く力が育つと思っているからです。研究には時として直感やひらめきが大切です。同時に全体を体系付けることも大切で、そういう連鎖の中からひらめきも生まれ易いのでは、と思っているからです。
(7) 再び問い詰める立場で
 前回特許の書き方を例に、相手つまり攻める立場をシミュレートすることで脇の締まった請求範囲がまとまるという主旨のことを書きました。これは何も特許に限られたことではなく、ほとんどあらゆる場合に共通して応用することができます。もうくどくど述べる必要はないでしょう。相手ならこれが気になるだろうな、これははっきりさせておかないと今度は自分自身が困るだろうな・・・、といったことは二人称で考えればかなり事前に分かることばかりです。とはいうもののシミュレーションはあくまでシミュレーションで、相手本人ではありませんから所詮100%とはいかないでしょう。それでも事前にそれをやっておけば、シミュレーションとの違いから相手の言い分や指摘がどういう意味を持つか、ああそうか、そういう見方もあるか、なぜ?、というようなことがはるかに容易に推定できるでしょう。
 もっと人が悪くなると、何カ所かわざと落し穴を設ける手があります。相手が気づいて鋭く指摘してくるかどうかを見るためです。これは人生全般に共通したことで私の好きな手法の一つですが、少し生臭くなりますのでこの辺で止めておきます。

(8) まずは幼稚園から
 相手の立場といえば、何度か述べたように私のところには若い研究者が研究の外部発表や特許の説明に来ることがよくありました。そうすると、かなりの人達は初めから細かい話を始めるのです。あたかも、それらの前提や経緯を知らない筈はあるまい、とばかりに。でも折角私のところに来た(多分おっかなびっくりだったでしょう)のにそれをなじるのは若い人を傷付ける恐れがあります。ですから、多くの場合、私は最初の間、よく状況の分からない話をじっと我慢の子で聞きました。そのうち暫くすると、何の話か思い出したり、あるいは土俵が見つかり、あたかも初めから分かっていたような顔で応答したり意見を述べたりしたものでした。しかし、ある程度広い視野をもって欲しい中間管理者にはそんな辛抱はしませんでした。「また、分からせまいと思ってしゃべっているの?」などと。
 ATRには大勢のお客様が見学や視察にお見えになります。私は説明者にこれだけは何度も言いました。「いきなり大学院の話はしないように。君たちの説明には幼稚園レベルの解説が欠けている」と。もちろん、これは喩えです。そして、より具体的には「同業の大学の先生方などは別として、一般の方々は(一部の方には失礼)法学士さんとか経済学士さんだと思いなさい。決して専門の同じ工学士や理学士、まして博士などとは思わないように」と。

(9) 大勢の相手もひとりひとり
 分かり易い例で論文の場合を考えてみましょう。私の経験では、多くの人は自分中心、つまり一人称で書きがちです。ですが、読む方も(幸いにして読んでくれたとして)当然のこととして自分の立場で読みます。その論文のテーマに関係した業績のある人ならそのことに触れてあるかどうか(例えば文献が引用されているか)密かに気にするでしょう。そして、きちんと評価してあれば喜ぶでしょうし、ひょっとしたらシンパになってくれるかも知れません。逆の場合はどうでしょう。うっかりすると敵を作るために論文を書いたことにもなりかねません。図面を無断引用するなどは最低です。ひとこと出典を書くだけの神経は持ちたいものです。要は書き物といわず、何事によらず相手は大勢ですが、その実体はひとりひとりだ、という極めて単純明快な事実です。とにかく、相手の身になってみることは損ではありません。ただ、ものの言い方書き方には細心の注意が必要で、下手をすると逆効果です。
 私はNTT時代、担当→主任→研究室長・・とはんこが押されてきた学会論文原稿を時々差し戻しました。判定には5秒もかかりません。まず謝辞を見るのです。そこにはしばしば、部外者には分からない組織や職名の略号がそのまま書かれていました。いわく「○○室△△役に感謝する」と。この○○は略号、室は研究室のこと、そして「役」は「調査役」のことで、社内では通用しますが第三者にはチンプンカンプンです。それをフルネームで書く程度の気配りさえできないで、読者に分かって貰えるように中身が書けているわけがない、一人よがりの危険大である、それが私の考えでした。もう一つ生々しい具体例を述べます。よく葬儀で弔電が披露されます。日本電信電話株式会社、時々「にっぽん・・・」と読む司会者がいます。そうかと思うと日本電気株式会社を「にほん・・・」と読む人もいます。いずれも間違いです。そういうのを聞くと私はいつも「ああ不勉強だなあ」とつい思ってしまいます。個人名に至っては公式の場で間違って読まれて愉快な人はまずいないでしょう。と言いながら私自身、前々回山田玲子研究員の名前を校正ミスするという(ワープロの変換ミス“伶”のまま)初歩的なチョンボをやってしまいました。ワープロはアブナイ、アブナイ。また例がいいかどうか分かりませんが、天真爛漫に自慢話をしたり書いたりする人がいます。順風満帆の人生を過ごして来た人にありがちです。流行りの「自分史」は得てして「自慢史」になりかねない、と自戒する人もいます。世の中には色んな境遇の方がいますから、もちろん素直に喜んでくれる人の方が多いでしょうが、やっかみを誘発するかも知れません。
 研究者、ことに基礎研究者はある程度楽観的であることも一つの望ましい資質です。ですから、今私が述べたようなことを一々気にしていたらやり切れないかも知れません。また、すべての相手に目配りをするのは所詮不可能ですし、万一漏れた人は相対的に不満を持つ危険もあります。だからといって、そういうことを何も考えなくていい、ということにはならないと私は思います。
 このシリーズも、そういう意味では(ここまで辛抱強くお読みいただいている)ひとりひとりの読者のことを想定すると大変気が重いのは半分事実です。言ってしまっては身も蓋もありませんが。