社会現象は人工生命モデルで説明出来る?



1.はじめに
 最近の人工生命や複雑系のブームは、社会科学、特に理論経済学に影響を与えています。米サンタフェ研究所などでは経済学者により進化システム・複雑系の概念に基づく経済現象のモデリング研究が進められており、日本においても、その影響を受けて一昨年から「進化経済学会」が発足し、システムの多様性、組織の共存・競争を進化のメタファーを用いて本格的に研究しようという動きが出ています。
 それに対して、私達のグループでは現在、ある理由から社会心理学に注目しています。

2.社会心理学と人工生命モデル
 社会心理学において数理モデルを用いて現象を表現・解析する分野は数理心理学として既に確立していますが、人工生命や複雑系の概念を用いたモデルおよび実験は現状ではそれほど多くありません。ゲーム理論は社会心理学においても多用されていますが、数学的研究よりはむしろ統制環境下における実験の一つの場面想定として利用される傾向が強く、現在の経済学のような人工生命モデルによる社会的場面のモデリングは積極的には行なわれていません。
 しかし、近年グループ・ダイナミクスという社会心理学の分野の観点からミクロ−マクロ・ダイナミクスを再認識する動きが起こっています。もともと社会心理学は個人と社会の動的相互規定関係を問題とする学問であり、個人の認知研究に傾斜した現在の社会心理学の現状に危機感を唱える動きが着実に根付いています。私達は、この社会心理学におけるミクロ−マクロ・ダイナミクスの観点が人工生命の「創発」、つまり、単純な規則を持つ局所ユニットの相互作用から大域的秩序が生成され、生成された秩序が局所ユニットを制約するという循環の観点と同一であることに着目しており、この動きに沿う形で、人工生命的手法と社会心理学の相互交流による発展の可能性を論じています。図1は人工生命における創発の模式図として頻繁に引用されるものですが、同時に社会心理学におけるミクロ−マクロ・ダイナミクスの観点を表したものでもあります。
 現在の人工生命における集団行動研究では、図1において相互作用を行っている局所ユニットが分子、細胞、あるいは単純な行動規則を持つ虫などですが、社会心理学においては、特定の社会場面における比較的単純な行動規則を持つ人間として表現されます。この図式に基づくことによって、人工生命と社会心理学の相互交流が可能となります。つまり、人工生命の合成的手法を社会心理学に持ち込むことにより、ミクロ−マクロ・ダイナミクスを表現する数理モデルを構築し、直接人間を用いた統制条件下実験の限界を超えたシミュレーションが可能となります。また、社会心理学が明らかにしている人間の特定場面での特徴を人工生命に持ち込むことにより、新たな集団行動モデルの可能性が広がると考えられます。
 社会心理学において既にこの種の研究はいくつか行なわれており、図2に示す私達の態度変容理論を用いた小集団モデルを含めて、マルチエージェントの概念を用いた人間の集団・組織行動のモデルが提案されています。また、私達は研究の一環として、災害前後でのボランティア集団の活動変化の現象を、確率微分方程式やCellular Automataによる数理モデルを用いて説明しようという試みを、現在行なっています[1]

3.社会科学における数理モデルの意義
 ここで問題となるのは、このような自然科学や計算科学から生まれた手法が、そのまま人間の集団現象に対して適用可能であるのかということです。従来の自然科学の前提に立つとき、社会心理学が対象とする人間の集団と、人工生命や複雑系が現在対象としている分子・細胞・虫等の集団との間には根本的な差異が存在し、原理的には自然科学と同様の客観性を求める研究自体が不可能であると主張する社会心理学者も存在します[2] 。つまり、対象が複雑過ぎるため、現象があまりにも不安定・非持続的・非反復的であり、観察により現象を客観的に記述することが難しく、理論への反映も客観的なものではありえないということです。
 社会心理学において客観性を追及する研究が原理的に不可能であるとすれば、理論の果たすべき役割とは、少なくとも自然科学が今まで目標としてきた「理解、予測、制御」ではありえません。これに対して、社会科学における理論は、「社会の前提・現代の社会生活・常識そのものを疑い、結果として社会の中に新鮮な代替案を提供することをめざすべきである」という主張がなされています。つまり、社会の現象に対して、従来の常識的な見方しか存在しない場合に、理論が新たな視点と解釈を提供することにより、社会を変容させるというものです。
 一度この立場に立てば、社会心理学における数理モデルの意義も自ずと明確化します。数理モデルで表現された社会現象に対して、数学の持つ演繹と新たな形式創造の力を通して、様々な現象の解釈を生成することが可能となると考えられるからです。つまり、数理モデルは現象の理解・予測・制御を行なうためのものではなく、社会に様々な現象解釈の選択肢を提供する一つのツールとして、その意義を保証されると考えられます。さらに、人工生命・複雑系研究の主流である計算機シミュレーションが、数学的形式内での演繹をさらに補完することで、解釈生成ツールとしての意義を与えられると私達は考えています。

参考文献


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