ソフトウェアアンテナ
−知能と変身の術を備えたアンテナ−
起.固いアンテナから柔らかいアンテナへ
インターネットで世界中の情報源に自由にアクセスしたり、音声や映像で会話を楽しむことができるようになってきました。また、ISDNに代表される高度な情報通信網も着実な広がりを見せています。このように便利な環境をデスクの上に留めず、いつでも・どこでもその恩恵が享受できるよう、屋外や屋内のあらゆる環境にサービスを提供する移動通信の発達も目覚ましいものがあります。
移動通信では、利用する人の動きに制約を与えないよう、情報の運搬には電波が用いられます。規則正しく振動する波をわずかに乱して乗せられる情報量には限りがあります。特に画像の伝送や大規模なデータベースへのアクセスをたくさんの人が同時に行えば、瞬時の情報量が膨大になり、電波(周波数)はいくらあっても足りません。そこで、限られた電波を有効に使い、欲しい情報だけを正確にとりだす技術がこれからますます重要になります。情報の出入り口であるアンテナに求められるものは、雑音や干渉波の中に埋もれた信号を的確にキャッチする能力(=ソフト)です。そしてその能力は、様々なことができる「技能」と、それを、複雑な電波環境に適応して発揮させる「知能」よりなります。
本稿では、このような新しい時代(=マルチメディア移動通信)に求められる知的変身の術を備えたアンテナ「ソフトウェアアンテナ」(1)を紹介します。なお、このアンテナ概念はまだ定着しているものではなく、まさにこれから研究として立ち上げたいと思っている概念です。
承.ソフトウェアアンテナとは?
ATRでは、知能を持ったアンテナとして「ディジタルビームフォーミング(DBF)アンテナ」の研究を行ってきました。DBFアンテナはアンテナに求められる大部分の機能をディジタル信号処理によって実現するアンテナです。たくさんの小さなアンテナ(素子アンテナ)からなり、各素子の情報をそのままAD変換器を介してディジタル信号処理部に取り込む。計算処理によって、一つのアンテナで様々な方向から到来する電波を同時に受信したり、環境の変化に応じてアンテナの特性を制御することができるので、複雑な電波環境を持つ移動通信分野のアンテナに適しています。
ところで、これまでのDBFアンテナはアンテナの機能をディジタル信号処理によって実現するものの、ロジックのハードウェア(論理結線回路)は、少なくともその動作中に変わることはありません。その場合でも、そこには適応的に働くアルゴリズムが実装されており、能力の範囲内で精一杯に適応します。しかし、ユーザの移動に伴って、時々刻々変化する電波環境は、あまりにも複雑でダイナミックです。一つのアルゴリズムでは、ある環境で強力な干渉波除去能力を発揮するとしても、環境が変わって劣化要因まで変わるともう対応できません。例えば、同一の源からの散乱波でも、到来時間のばらつきが小さいときは散乱波を全て取り込み、位相を合わせて合成すればよいですが、遅延の差が大きい散乱波をこのルールで集めると伝送波形の歪が生じて、符号間干渉により誤りが発生します。この場合には、遅延の大きい波を除去したり、歪んだ波をもとの形にもどす機能が必要です。これまでに考えられているどんなアルゴリズムでも環境に対して得意不得意があり、万能なものはありません。その場合、必要と思われるアルゴリズムを全て実装しておいて、切り替えて使う手がありますが、処理部のハードウェア規模に際限が無くなり、結果として信号処理のスピードも落ちてきます。
その様なとき、自らの論理回路を即時に書き換えることができるリコンフィギュラブル・ロジックがあれば、環境の変化に対して最適なアルゴリズムを次々と登場させることができます。リレーのランナーがスムーズにバトンを渡して速やかに入れ替わるように華麗に変身して行く。これは、環境(電波環境、通信環境)の変化に適応して、アンテナシステムがその動作中にソフト(アルゴリズム)・ハード(論理結線回路)の両面でダイナミックに自己変革(=変身)を遂げて行くイメージです。個々のアルゴリズムが有する制約を越えた信号処理(=アルゴリズムタイバーシチ)によって環境に適応し、カメレオンのように(カメレオンは見かけだけであるがもっと本質的に)自分自身を変えて行くアンテナ、これを「ソフトウェアアンテナ」と呼んでいます[1]。
図は移動通信の基地局アンテナを想定したソフトウェアアンテナの構成例です。(a)環境の変化を正確に認識して瞬時に最適なアルゴリズムを判断する信号処理部、(b)様々な環境を想定してあらかじめ用意されている複数のアルゴリズムソフト群、(c)選ばれたアルゴリズムを瞬時に実装して機能を発現するリコンフィギュラブルロジック、が基本要素です。上述のDBFアンテナは(b)と(c)の一部に含まれています。(a)は環境に対する目となり耳となる部分、またはその結果から環境の構造を正確に認識する機能が求められ、アンテナの知能を担う部分です。(b)はスペシャリスト(=アルゴリズム)を投入するソフトをプールしておくところ、環境の変化に応じて求められる異質のアルゴリズムを次々と送りだし、(c)に流れている情報を乱すことなく、華麗にハードを変身させて行く。
新しい概念としてアルゴリズムダイバーシチを述べましたが運認識した結果にしたがって単に切り替えるだけでなく、アルゴリズムの中の要素間の相互作用によって新たな機能を持つアルゴリズムが生まれるような、アルゴリズムの進化が始まる仕掛けができればおもしろいと思っています。
転.機は熟してきた
上記のソフトウェアアンテナの構成の中で、唐突に「自らの論理構成を即時に書き換えることができるリコンフィギュラブル・ロジックがあれば」と書きました。ATRがDBFアンテナの信号処理部として開発したFPGA(書換可能なゲートアレー)ボードにはまだその機能はありません。書き換えが動作中にはできないからです。運用開始時あるいは、タイミングを見て論理回路を書き換えるのはインシステムプログラミングと呼ばれていますが、この段階です。リコンフィギュラブル・ロジックの開発動向については、文献[2]に詳細な解説があります。そこでは、FPGAの本来の機能を活かす使い方として「書き換え可能」な点に着目し、書き換え時間を大幅に短縮した(100μsecという数値が挙げられている)リコンフィギュラブル・ロジック対応FPGAの時代が近づいたことを告げています。夢(=ソフトウェアアンテナ)を実現する手段もまた、生まれつつあります。
結.マルチメディア社会を一層豊かなものにする
新しい時代のアンテナのコンセプトを紹介しました。このアンテナをソフトウェアアンテナと呼び、環境(電波環境、通信環境)の変化に追随して、アンテナシステムがソフト(アルゴリズム)・ハード(論理結線回路)の両面でダイナミックに知的な変身を遂げて行くイメージを示しました。ソフトウェアアンテナの実現にはアンテナ技術、ディジタル信号処理技術、マイクロプロセッサー技術等様々な技術を背景とした研究が必要です。マルチメディア移動通信・モバイルコンピューティング時代に活きるアンテナであり、力を入れて研究に取り組んで行きます。
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