生物学的情報通信システム研究のすすめ
−革新的アーキテクチャの創出を目指して−



1.情報通信環境の多様化
情報通信システムはいまマルチメディア情報通信を指向して、通信ネットワークと情報通信端末の多様化が急速に進んでいます。多種多様な情報通信手段の有機的なネットワーキングにより、いろいろな情報通信アプリケーションがつぎつぎに生まれ、さらにこれに利用形態のパーソナル化が重なって、将来の情報通信環境は極めて複雑で多様な様相を呈することになるでしょう。すなわち、様々な機能、特性をもつ通信ネットワーク、端末、アプリケーションを有機的に結合して利用しようとするとき、経由する通信ネットワークや使用する双方の端末の種類とその性能/負荷状況などによって、使える情報通信環境が様々に異なってきます。場合によっては利用中にも情報通信環境が時々刻々変化していくことも考えられます。いろんな種類の端末を使って数人の参加者が遠隔会議をするようなアプリケーションなどではさらに複雑な環境(マルチパーティ通信環境)になります。また、情報通信アプリケーションのパーソナル化により、通信ネットワークや端末の状況ばかりでなく、ユーザ個々人の多様な利用形態、さらにはそれらが出会うことにより様々な情報通信環境が現われます。
 このように複雑でかつ、いろいろに変化する不確かな情報通信環境に対して、ユーザ自身がその都度対応を強いられるというのでは、大きな利便性をもたらす可能性を秘めたせっかくの情報通信システムも限られた形態でしか利用できず、多彩な情報通信アプリケーションをだれもが自在に利用して真に豊かなコミュニケーションライフを享受できる社会は実現されません。
 そこで、複雑な情報通信環境をユーザ自身がいちいち意識しないで済むように、その環境をユーザからできる限り隠蔽してしまう技術、ユーザにとって不都合な環境を解消してしまう技術が必要になります。以下では、それを指向した例として、システムが自律的に状況に合った振る舞いをしたり、さらには自らの構成・機能をも変えたりする、環境適応能力を備えた生物的情報通信システムをいくつか紹介します。

2.環境適応する通信ネットワーク
高度情報通信社会のインフラストラクチャとしての通信ネットワークには、通信トラヒック処理の効率性と同時に、負荷変動やネットワークの故障、構成変更などの状況変化に対して柔軟に適応して通信トラヒックの疎通を確保できる頑健性、寛容性が求められます。
 それを実現するネットワークアーキテクチャとして、自己チューニング通信ネットワーク(STN:Self-Tuning Network)[1]があります。STNでは、物理網に大容量の伝送帯域、メモリなどのネットワークリソースを配備しておき、ネットワーク内に分散配置した個々のリソース管理エージェントが局所的な情報に基づいた単純なルールに従って自律的、非同期的にネットワークリソースの貸出、返却を行います。ちなみに、ATM(非同期転送モード)網ではVP/VC(論理的な伝送パス/チャネル)の帯域幅を容易に変更することが可能で、STNを適用するのに向いています。このような個々のエージェントの自律的で、局所的な振る舞いによりネットワークリソースが配分される結果、効率的なトラヒックネットワーク(通信トラヒックを疎通する論理網)が形成されます。STNのトラヒックネットワーク形成過程は負荷変動やネットワーク故障などの状況変化があっても、新たな状況に対応した効率的なトラヒックネットワークへとダイナミックに変化していける頑健性を持っています。
 STNは生物の神経系におけるシナプス結合の可塑的変化による神経回路網形成にヒントを得て考案したアーキテクチャで、神経インパルスに見立てた通信トラヒックの流れ方によって結合部の伝達効率が自律的に変化するようにしたものです。STNの頑健な環境適応能力が分散エージェントの自律動作の結果として発現しているメカニズムは大変興味深く、今後この観点からの検討を深めてその発現原理を明らかにしていきたいと思っています。

3.環境適応する通信方式
つぎに視点を変えて、情報通信利用の問題について考えてみます。
 前にも述べましたように、情報通信を利用する際、使用する情報通信手段の組み合わせにより様々な情報通信環境が現われます。光アクセス網につながった高性能ワークステーションを使って高速広帯域通信が可能なユーザや、ワイヤレスアクセス網経由で携帯型情報通信端末を使って狭帯域通信のみが可能なユーザなど、いろいろな情報通信手段を使った複数のユーザが遠隔会議に参加して相互に実時間マルチメディア通信を行う場合、ユーザ毎に使えるリソースの制約が異なるため、それに応じた受信情報のフィルタリングが必要です。情報のフィルタリングについては、スケーラブルな階層符号化を利用した方式が検討されていますが、当研究室では、情報受信ユーザの多様な利用形態(品質要求)への対応を考慮して、フレキシビリティの高いフィルタリングについて研究していきたいと思っています。そこでは人間の視聴覚特性をうまく利用した符号化方式を使ったフィルタリングなども視野に入れています。
 また、通信効率や伝送エラー率などの通信環境に応じて、使用する通信プロトコルを自律的に変更・調整したり、通信プロトコルが自ら新たな機能を獲得して通信環境に、より適合した新たな通信プロトコルに進化したりする適応的通信方式の研究も、複雑で不確定な通信環境と関連して重要なテーマの一つです。

4.パーソナルエージェント
情報通信システムにとって最も重要な環境でありながら、適応するのに最も厄介なのが、情報通信を利用するユーザ個々人です。情報通信の利用形態は各人各様であり、情報通信アプリケーションのカスタマイゼーションは究極的には、どこからでもユーザ個々人が自分の使い方に合った、普段から慣れ親しんだ環境で情報通信を利用できる真のパーソナル情報通信にまで行き着くのが理想です。
 非同時性、手軽さなどが受けて電子メールの利用がいま爆発的に拡がっていますが、電子メールの付加機能については、そのユーザが電子メールをどのように利用するかによって多種多様な要望が出てくるでしょう。私の場合には、受信した添付ファイルの中身を見るためのアプリケーションプログラムを持ち合わせてないなかったために物理的には受信できたファイルを読めなかったり、出張で数日間留守にしている間に溜まった種々雑多な電子メールに目を通すのに骨が折れたり、その中に急ぎの電子メールが混ざっていて既に回答期限切れになってしまっていたりで、不便を感じることが多々あります。急ぎの電子メールが着信したときには気を利かせて、それを出張先の私まで知らせてくれる(電子秘書機能の一つ)などの機能があると助かります。
 このように、ユーザ個々人の利用形態に合わせて情報通信利用の面倒をみてくれるのが、個人対応のエージェント(パーソナルエージェント)群です。今後、情報受信側ユーザ主導の情報通信の重要性が高まる中、情報発信側と情報受信側のユーザ要求が競合するときに互いに交渉して競合を調整する機能をもつパーソナルエージェントなども必要になるでしょう。2.で述べた、情報受信ユーザの多様な品質要求に対応して情報のフィルタリングを行う機能もパーソナルエージェントの一つと考えられます。
 これらのパーソナルエージェント群が適応進化能力をもつようになれば、使い込んでいくにつれてユーザ個々人の使い方に合ってきて使い勝手がどんどんよくなっていったり、自ら新たな機能を獲得してユーザ要求の達成度が向上したりする、究極のパーソナル情報通信(UPT:Ultimate Personal Telecommunications)の実現も夢ではなくなるかも知れません。
 様々な内的・外的環境に自律的に適応しながら、ユーザ個々人へのベストサービスの提供を目指していく頑健で寛容な情報通信システムを実現するための革新的なアーキテクチャを創出すべく、生物学的観点からの情報通信システム研究に取り組んでいます。

参考文献


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