ATRの現況と今後の取り組み
株式会社国際電気通信基礎技術研究所 代表取締役副社長 葉原 耕平
ATRは設立後5年余りを経過致しまして、一昨年(1989年)春からは関西文化学術研究都市の新しい環境の中に新研究所を開設することが出来、研究も順調に進展して参りました。これもひとえに関係の皆様方の絶大なご理解ご支援の賜物でございまして、この機会を借りまして、あらためて厚く御礼申し上げる次第でございます。
これまでも何度か、関西地区におきまして『ATR研究発表会』を開催いたしまして、それまでの研究成果を報告させて頂きましたが、今回はより広く関係の方々のご理解を頂きたく、5周年の機会に初めて東京で研究の概要を報告させて頂く機会を設けさせて頂きました。皆様方の忌憚のないご意見・ご叱声を頂戴致したく、宜しくお願い申し上げます。
ATRの研究プロジェクト
それではATRで進めております研究の概況についてご報告申し上げます。すでにご案内のこととは存じますが、ATRでは図1に示しますように、4つの研究開発会社によって4つの研究プロジェクトに取り組んでおります。たとえば、ATR通信システム研究所の研究プロジェクトは「知的通信システムの基礎研究」でございます。
臨場感通信会議
最初は、ATR通信システム研究所『知的通信システムの基礎研究』であります。
通信の世界は、近年関連技術の急速な進歩によっていわゆるマルチメディア時代に入ろうとしております。そして、技術はさらに多様化し、研究課題も拡がって参ります。そこで、ATRではマルチメディアにおける要素技術を効率よく追求するために、キャリイング・ビークルと称しまして『臨場感通信会議』という概念を提唱し、関連する要素技術の研究に取り組んで参りました。
この『臨場感通信会議』と申しますのは、図2に示しますように、『あたかも一堂に会しているかのようなフィーリングを参加者に与えること』を狙っております。このようなフィーリングは、最近『人工現実感−Artificial
Reality−』と呼ばれるようになって参りましたが、ATRはその先鞭をつける一翼を担ったことともなりました。
“Advanced 借景*−Advanced
rent-a-landscape”であります。
この『あたかも一堂に会している』かのようなフィーリングを参加者に与えるには、様々な要素技術が必要であります。目線、身振り手振りの検出、そしてそれらを遠隔地の仮想的な空間の中に表現するなどの技術であります。ATRではこれらの分野で、すでに幾つかの先端的な成果を得て参りました。今後、視覚・聴覚に加えて触覚も含めて、より高度な人工現実感の諸課題に挑戦していく予定であります。
ソフトウェア研究の視点
ところで、これからの高度情報社会においては、ソフトウェアの比重がますます高くなって参ります。一つの試算例によりますと、ソフトウェアの産業規模は西暦2000年には30兆円を超える、といわれております。しかし、問題はソフトウェア人口の不足で、ソフトウェア生産性向上の研究が極めて重要なキーとなるわけであります。ソフトウェアの生産性を仮に1%向上させることができれば、国全体で3000億円以上に相当する効果が得られることとなるわけでありまして、その社会的影響は大変大きいと思われます。
ソフトウェアの製造プロセスの中でも、初期段階で設計者が構想を練っている段階の能率化とその質の向上は、その影響が後々までも及ぶ関係で、全体の効率化にとって大変重要であります。ATRでは通信ソフトウェアを題材として、このようなソフトウェア製造の上流工程に注目して研究を進めて参りました。また、ソフトウェアには追加・変更がつきものであります。その際、影響範囲の局在化を保証できれば、工数は大幅に減少し、また高品質となります。このような課題に対して、すでに幾つかの大きな進展をみておりますが、今後、セキュリティーの研究と合わせてさらに理論的、実証的検討を深めて参ります。
自動翻訳電話
次はATR自動翻訳電話研究所で進めております『自動翻訳電話の基礎研究』であります。自動翻訳電話は、その名の通り、コミュニケーションにおける言語の壁を取り除こうという野心的な研究であります。
自動翻訳電話の研究には、大きく分けて、音声認識、対話翻訳、音声合成の3つの要素技術がございます。特徴的なことは自動翻訳電話の場合、一言でいえば、『話し言葉』に由来する諸課題の解明と克服ということであります。たとえば、音声認識ひとつ取りましても、自動翻訳電話の場合は最終的には、不特定の人が大語彙をしかも連続的に発話した音を認識しなければなりません。対話翻訳についても、特に日本語の場合、主語・目的語の省略、敬語その他『書き言葉』にはあまり無い特有の難しさがあります。音声合成についても、より自然な、そしてできれば話し手と同じ声音(こわね)で音が合成できることが望まれます。
ATRでは、国際会議開催事務にかかわる電話会話を題材にして、音声処理と言語処理とを関連付けて処理する新しい手法を開拓するなど、これらの諸課題を精力的に研究して参りました。その結果、これまでの研究成果を集大成して、400語程度を対象に日英翻訳のプロトタイプを近く完成するところにまでなりました。これから、さらに語彙数や話題拡大のための技術、英日翻訳との組合せなどに挑戦して参ります。
なお、自動翻訳電話は、生きた会話を対象と致しますので多くの会話事例、発話事例が必要であります。ATRでは、研究用に多くの会話・音声のデータベースを作成しておりまして、外部の機関の方々にもご利用いただいております。
人の認識メカニズム
次に、ATR視聴覚機構研究所で行っております『視聴覚機構の人間科学的研究』に移ります。
電気通信の使い手は最終的には人であります。したがって、より良い通信システムを追求するには、人々がどの様にして情報を作り出し、受け取り、認識し、そして行動につなげているのか、といった基本的課題を追求することが必要でありまして、視聴覚機構研究所では、人による音声や映像の認識メカニズムを中心に探究致しております。本日はそのすべてをご紹介する時間はございませんので、一、二の例によって研究の一端をご紹介致します。
いまここに、1枚の絵(写真2左)をご覧いただいております。多分、どなたにも真ん中の部分はとびだして見える−つまり凹凸の凸に見える−と思います。
それでは、これはどうでしょうか?(写真2右)おそらく引っ込んで凹に見えると思います。
いま、この絵(写真2右)を上下反対にしてみます。如何でしょうか?今度は凸に見えるようになったのではないでしょうか。実は、これは先程の絵(写真2左)と同じものであります。上下ひっくり返すだけで、私達は凹凸が反転したように認識します。これはなぜでしょうか?解明の鍵は、人の認識メカニズムにあります。
一つの考えは、人は光は上の方から当たっている、という先入観というか本能的な知識をよりどころとして認識をしているのではないか、という仮説であります。これは、恐らく人類や生物が太古の昔から地球上に住み、上から太陽の光を受けてきたことに由来するのでありましょう。
また、目の網膜に写った映像は2次元であります。それなのに、人はどうして対象物を3次元のものとして形を認識できるのでしょうか。
これらは、物理的なセンサーである目の網膜とか耳の末梢感覚器から始まって脳の中の記憶のメカニズムまで関係する研究課題であります。ATRでは、このような人の認識メカニズムを説明するモデルを−まだ初歩的なものでありますが−つくり上げることに成功いたしました。外国人研究者を含めた国際的な研究環境と工学者、心理学者、生理学者などのいわゆるインタディシプリナリな協力によって出来たものであります。
いま申し上げましたのはほんの一例でありまして、このほかにも、最近特に盛んになりましたニューラルネットワークとその応用技術の研究につきましても、ATRでは発足当初から積極的に取り組んで参りました。この分野では、お蔭様で世界的にもかなり名が知られるところとなり、そのしるしとしてATR主催のワークショップなどには世界の著名な研究者がこぞって出席して下さるようになりました。
今後もインタディシプリナリな研究環境の中から飛躍的なアイディアを得るべく着実に知見を積み上げて参りたいと思います。
光衛星間通信
最後に、ATR光電波通信研究所で進めております『光電波通信の基礎研究』であります。
人類の活動は、いまや地球を離れて宇宙にまで拡がって参りました。人工衛星相互の通信、あるいは人工衛星とシャトルなどの飛翔体との通信の需要が今後増えて来るものと思われます。このような宇宙環境では、地上のように雨とか雲などの影響がありませんので、光による通信が大変有望であります。ATRでは、この光通信の基礎研究に取り組んでおりますが、光による宇宙通信は、数万キロメートルに達する通信系でありますので、課題も多々ございます。詳しく申し上げる時間はございませんが、以下、すでに得られた成果を一、二ご報告致します。
まず、数万キロメートルに及ぶ距離での光通信の実現性を理論的・数値的に確認し、それとともに、具体的なプロトタイプ装置を試作いたしました。また、光を用いますと極めてシャープなビームで高能率の通信が可能となりますが、反面、相手の衛星に搭載されているアンテナに正確にビームを当てることが難しい技術になって参ります。そのためのトラッキングの方法について基本技術を確立いたしました。光通信ではマイクロ波と違って太陽の光は雑音源でありますので、その対策も必要であります。このように多くの基盤技術を一歩一歩積み上げてきております。
また、現在、宇宙環境を模擬した実験環境を構築しております。『宇宙空間を実験室内へ』がキャッチフレーズであります。今後、この施設を用いてデータを積み上げ、また未着手の項目を含めてさらに研究を発展させて参ります。
通信のパーソナル化
話を少し変えまして、最近、移動体通信が爆発的に増えて参りました。通信のパーソナル化であります。しかし、現在のままでは、早晩、周波数などが不足して参ります。そのため、新しい周波数帯の開拓や新システムの開発が必須となって参ります。ATRではこのことを見越して、この分野での新技術の研究に取り組んでおりまして、これまでに、自動車など移動体が動き回っても電波の到来方向がきちんと捕捉できるアンテナ技術、これから需要が増える可能性の大きいオフィス内での電波の特性の基礎データの整備、関連した装置の発案、などの成果を得て参りました。今後、ディジタル信号処理技術、ニューラルネットワーク技術などを駆使してシステム、装置の抜本的な改善に結びつく技術について、さらに研究を進めて参ります。
いま、申しましたような通信のパーソナル化には、装置の小型化が必須であります。ATRではそのためのデバイス等について、理論的・実験的研究を精力的に行っております。たとえば、超小型の腕時計式の無線機の実現につながるものとして、マイクロ波用ICの研究を行っております。
今後の課題
以上、ATRで進めております研究の概況についてご報告申し上げました。
ここで、今後の課題について二、三申し上げたいと存じます。
まず、研究を進めるうえで一番大切なものの一つでございます研究者につきましては、現在約180名に上っております。大半はご支援を戴いております企業約140社のうち50社にも及ぶ多くの会社から、出向の形で派遣して戴いておりますが、インタディシプリナリな領域における国内外の優秀な人材の活用にも力を注いで参りました。外国からの研究者は、常時20人近く、これまでの延べで60人程に達しております。お蔭様でATRの知名度も内外ともにかなり高まって参ったように思っております。関係の各企業におかれましては、引き続きご理解ご支援を賜りたいと存じます。
次は、プロジェクト期間の終了に関する事であります。基盤技術研究促進センターのきまりによりまして、自動翻訳電話研究所と視聴覚機構研究所はあと2年弱、通信システム研究所と光電波通信研究所はあと5年弱でプロジェクトが終了致します。しかしながら、基礎研究は本来息の長いものでございますので、必要なものについてさらに発展的なプロジェクトを打ち立てて参りたいと考え、準備を進めているところでございます。関係の方々には引き続きご理解ご支援を是非とも宜しくお願い申し上げる次第でございます。
ところで、電気通信の使い手は最終的には人であります。また、新しいシステムの基本コンセプトを生み出していくのもやはり人であります。ATRにおきましては、使い手であり、あるいは設計者でもある人間の視点に立つ、という原則から研究を進めて参りました。そして、人間とか生物は研究対象として宝の山であります。人や生物に学ぶ中からヒントを得るというような謙虚な姿勢を忘れることなく、引き続き人間性に根ざした研究を進めて参る所存でございます。
ATRが目指しております、このような研究には学際的アプローチが大変重要でございます。幸い、ATRは分野、さらには文化の異なる研究者が一箇所に集まって切磋琢磨するという恵まれた環境にございます。このような、国際的かつ学際的な人材と研究環境が、ATRにおける創造的研究の原動力になるものと考えております。
私どもはこのようなATRの恵まれた環境をフルに生かしつつ、更に研究活動に邁進する所存でございます。関係各位におかれましては、引き続きご理解ご支援賜りますよう心からお願い申し上げる次第でございます。