人間主体の通信システム:HOCSを目指して





ATR通信システム研究所 社長 山下 紘一



 近年、私たちをとりまく通信環境はますます多彩で便利なものへと発展しつつあります。以前から身近かであった電話やラジオ、テレビに加えて、ファクシミリやデータ通信、移動通信、ビデオテックスなど、新しい通信も広く使われています。いつでも・どこでも・だれとでもという、長年通信が目指してきた目標は、今や少なくとも技術的には、最低線が確保されたと言って良いでしょう。
 一方、通信の基盤となる広い技術分野では、新しい材料や素子の出現、高集積化の進展、知能処理などの高度情報処理等、技術はなおも急速に進歩しています。ますます大量の情報をますます安価に、伝え・蓄え・処理できるようになりつつあります。通信の将来の発展は、今日の発展状況をもって推してもなお、想像を絶するものがあると思われます。
 その行き着くところ、将来の私たちの生活や活動が、細密な網の目のように世界に張り廻らされた高機能な情報通信ネットワークによって、根底から厚く支えられることになるのは必然でしょう。これによって豊かさや効率性の飛躍的な向上のもたらされることが期待されます。しかし、もし、発展の方向づけやそれへの備えが不適切であるならば、いびつな発展の結果として、大きい禍がもたらされないとも限りません。これは歴史の教えるところです。
 機械文明が進み、私たち人間のそれに依存する度合いが高まれば高まるほど、「人間主体」という視点が重要になります。今、私たちは、手にしつつある高度の技術によって、「人間主体」を追求する余裕を得はじめました。そして、今、人間との調和を主眼に、一層高度の技術が整然と豊かに築き上げられていくことが強く望まれています。
 当研究所は、以上の観点から、「人間主体の通信システム:Human Oriented Communication System HOCS」を統一テーマとして掲げ、通信が人間との調和をもって発展していくための鍵となる多くの視点の中から以下に述べる四つを取り上げました。そして、そこからの透視図法に則って既存技術の集大成をはかる中で、将来の発展の核となる新しい基礎技術の確立を進めることとしました。
 以下、これに沿って、研究の概要を紹介します。

(1)臨場感通信
 技術に余裕が出てくると、「そこに在るように・居合わせているように」聞き、見、触れたい、という臨場性(迫真性、自然性)への欲求が高まるに違いありません。現実そのままを求めるのは人間の本性と言ってよいでしょう。また、共同作業も少し複雑になると、通信を介してでは煩わしいものです。しかし、これは現在の通信の限界ではあっても、通信そのものの限界とは言えません。臨場性が通信の限界を大きく広げることは十分に期待できます。
 臨場性のためには、空間を再現するための表示技術や空間情報を適切に入力する技術が重要です。自然性等感性の扱いも重要で、適切な演出の処理が必要となります。音声や画像さらには触覚情報など、情報の総合的取扱いもいずれ避けては通れません。
 当研究所では、手始めとして、臨場性の共通基礎技術である三次元物体の立体形状情報の自動入力と立体表示の研究を進めています。前者は、光の干渉でできるモアレ縞を画像処理して奥行き情報を得る方法を、後者は、大型の鏡を組合せて奥行き感と臨場感を得る方法を取り上げています。

(2)非言語的意思疎通
 意思疎通のための最大の手段は言語と言えるでしょう。言語の用法については、それを使う社会の成員間に、少なくとも表面的には、明確な約束が成立しており意思疎通を支えています。しかし、言語以外の情報も重要です。それらは、言語のように約束づくではないのですが、お互い人間として生物的・文化的基盤を共有することから暗黙裡に了解可能なものであって、意識的・無意識的に使われ、意思疎通の円滑化に大きい役割を果たしています。表情や身振り、図の使用等はそのごく一部に過ぎません。
 このような非言語的情報の暗黙了解の仕組みを工学的に実現できるならば、人間相互の意思疎通を支援したり、マンマシン・インタフェースを格段に向上することが可能になります。そのためには、対象情報について、その構造や使われ方、意味等を明らかにして知識ベース化を進め、適宜にシステム化して有効性を検証する、等の研究が不可欠です。
 当研究所では、人のまなざしや文書レイアウト、概念図、などを対象情報として取り上げ研究を進めています。併せて、意思疎通における言語と図の協調的用法について研究を進めています。

(3)高セキュリティ・ネットワーク
 情報化の進展が、私たち人間にとって好都合な面ばかりでないことは、常に指摘されるところです。情報やシステムの悪用や濫用、盗聴、偽装、妨害、情報の抱え込みや価値ある情報の埋没、過度の集中やシステム依存による社会の脆弱化等、情報化の影の部分を指す言葉は枚挙にいとまがありません。
 このような問題に対応するためには、情報化の影の多様な態様に即して、また、システムの役割、機能、構成等の特質に即して、さまざまのセキュリティ技術が開発される必要があります。これは、暗号理論や知能処理、画像処理、パターン認識等、広い技術分野に立脚して進められることになります。
 当研究所では、将来の高度な情報通信ネットワークが担う役割や機能を想定しつつ、必要なセキュリティ技術の研究を進めることとしています。現在、画像通信向きの高速で強い暗号方式の研究を進めています。また、個別には不完全な技術を補完的に組み合わせて高信頼度を得る等のシステム的視点からの研究も進めようとしています。

(4)通信ソフトウェアの自動作成
 通信ソフトウェアは、一般に、高速性や高信頼性が要求され複雑・大規模になることから、その作成が大きい問題となります。将来は一層の高機能・高性能性やユーザ要求への即応等大きい柔軟性も要請されるため、ソフトウェア作成技術の画期的な進展がないならば、人間との調和を目指す通信の発展も大きく阻害されることになります。
 ソフトウェアの自動作成は人類の夢です。これを実現することは、経験をその後の類似状況に有効に適用可能にする仕組みや、大抵の状況に対応可能なよう予め多くを経験する仕組み、を工学的に実現することです。これには、盛んに研究されている知能処理の適用が有効ですが、さらに、(本項では)通信および通信システムについての分析と概念体系化が、既存経験の整理という意味で、重要です。
 通信の全体が扱えるようになるのは遠い将来のことでしょう。当研究所では、対象を限定して一つ一つ研究する中で、併せて、通信に関する知識ベースの蓄積や新しい知識表現法の開発、ソフトウェア作成ツールの高度化等を進めることとしています。

 以上の項目はいずれも、言わば、永遠のテーマです。しかし、そこに視点を据えて系統的に研究を進める中で、具体的な成果を一つ一つ手にし積み上げていくことによって、21世紀の「人間主体の通信システム:HOCS」への展望を切り拓いていけるものと確信しています。