人間情報コミュニケーションの研究

〜人間性豊かなコミュニケーションの実現に向けて〜


1.はじめに
 IT(情報技術)革命のことばに象徴されるように、コンピュータの普及とそれらを結ぶネットワーク化の進展は情報通信環境に劇的な変化をもたらしてきました。これまでの「時間・距離の短縮」型の通信から「多様な時間・空間の創出」型の通信へ、必要時に相手とつながる「メッセージ空間」から常時接続型の「生存空間・社会空間・産業空間」へとパラダイムをシフトさせつつあります。ネットワーク上でのコミュニティーやサイバー社会の出現をも可能としつつあります。さらには、携帯端末などの通信技術の普及と多様化、ペット型・人間型ロボットの出現とそれらへの社会的関心の高まりは、人間とコンピュータが共存・共栄する「新しい情報文化」の醸成をもたらすものと期待されています。このような情報通信環境の変化・発展にともない、人間にとって容易かつ自然な機械とのインタフェースがその重要性を増しつつあります。これまでも人間中心のインタフェース技術の実現に向けた研究開発が種々行われてきましたが、十分に“人間に優しい”技術として実現されるには至っていません。このような問題の根本的解決のためには、人間のコミュニケーション機能の理解に基づく基礎的な研究開発が今こそ必要不可欠なのです。また、生物としての人間はこのような急激なIT化に合わせて適応進化することはできません。人間性を豊かにする新たな道具として人間が使いこなせる情報通信環境とはどのようなものなのでしょうか? それに応えるためには、人間進化の革命となった言語や道具を発明し、それらを活用するコミュニケーション能力を発達させた脳の情報処理に学ぶことが不可欠です。とりわけ脳だけではなく、人間の身体的能力と学習・適応する能力の理解を目指した基礎研究が極めて重要となります。一方、ITやネットワーク化を通して人間と人間、人間と情報との出会いの機会は拡がりつつあるのに反し、人々はコミュニケーションの豊かさを実感できず、むしろ疎外感や孤立感を深め、コミュニケーション不全が散見されるのも事実です。人間はなぜコミュニケーションを欲し、コミュニケーションに何を求めるのか? そのような根元的な問いかけに応えるためには、“コミュニケーションは人間の本能である”との立場に立つこと、そして人文社会科学的な見方も含めて情報やコミュニケーションの本質を探究する情報学的な視点から、人間と人間、人間と情報、人間とシステムとのコミュニケーションを捉え直すことも重要と考えます。ここでは、上記のような問題意識に基づき、「人間を理解する」立場から、コミュニケーションの本質の究明に向けた基礎的な研究開発として取り組んでいる、人間情報コミュニケーションの研究について紹介します。

2.「人間を理解する」立場からコミュニケーションに迫る
 人間情報コミュニケーションの研究では、「人間を理解する」立場からコミュニケーションの本質の究明に向けた基礎的な研究を展開し、「システムとして実現する」なかから人間情報コミュニケーションの新たな可能性を拓く先端技術の創出を目指しています。コミュニケーションには情報処理が必然的にともなう一方、情報発信という別の側面があり、両側面から研究を展開することが肝要と考えます。そのため、情報処理の側面として、(1)人間のコミュニケーション機能のうち最も基本となる情報入出力系として音声言語と視覚認知に着目する人間コミュニケーション機構の研究、(2)計算論的神経科学のアプローチから情報の入力から出力までの情報処理を一貫して扱うコミュニケーションの計算神経機構の研究、および情報発信の側面として、(3)情報学的な立場から人々の自発的な情報生成を誘発する仕掛けづくりを狙ったコミュニケーション創発機構の研究を行います。具体的には、上記に掲げた3つの課題のひとつである人間コミュニケーション機構の研究を音声言語と視覚認知とに分けて行うこととし、(1)音声言語コミュニケーション機構、(2)視覚認知コミュニケーション機構、(3)コミュニケーション計算神経機構、(4)コミュニケーション創発機構の4つのサブテーマを設定して研究を進めています。

3.音声言語コミュニケーション機構
 人間の音声には、叙述的思考や情報交換の道具、あるいは情緒的意識や身体的情報の媒体としての機能があり、これらが一体となって日常の生活と人間社会の形成に大きな役割を果たしています。この背景には、人間の体に備わった音声言語を生成し知覚する機能と、これらの機能を統合して言語体系を学習する能力があり、人間のコミュニケーションの基礎を支えています。本サブテーマでは、音声言語を用いた人間性豊かなコミュニケーション実現のための基盤技術の確立を目的として、人間の音声言語能力を模擬し、音声言語の学習を介助するシステムの研究を行います。音声言語は人間の体の仕組を利用した通信方式であり、音声言語を使用する能力や音声の物理的性質は、体の形態と機能に大きく依存しています。また、音声言語の能力は生後の言語環境に依存して発達しますが、成長過程においても変化するために、学習環境にも依存する性質をもっています。これらの人間のもつ音声言語能力を機械により代行させようとする場合、あるいは人間が第二言語に適用しようとする場合、人間の機能・行動についての根本的な理解を怠るならば、音声合成の不自然性や音声認識の不確実性などの問題を生じることになります。そして、長年の語学教育にも関わらず第二言語の使用に困難をもたらすという結果を生じることになります。そこで、音声言語の生成面について、計測が困難であるという理由で未解決のままになっていた形態・運動などの人間の生物機構を解明する研究と、その機構を忠実に模擬するシステムを構築する研究を進めています。また、音声言語の学習について、訓練システムの作成が困難であるためにこれまでに十分に研究されてこなかった第二言語を獲得する過程を主な対象として、生成と知覚の機能変化と異なる機能間の相互の関連、効率的な学習プロセス等を研究します。これらの生物機構と学習機構の研究成果を統合することにより、一つのシステムのなかで音声合成と音声認識を同時に学習する自律型音声言語処理を可能とする基盤技術を提案していきます。

4.視覚認知コミュニケーション機構術
 人間のコミュニケーションは、人間を対象とするばかりでなく人間をとりまく環境も対象とします。実世界の環境は、静的ではなく、環境要素の物理的な変化や、環境に身を置く人間のコミュニケーション行為自体によっても動的に変化します。すなわち、人間と環境との相互作用そのものが動的な振る舞いを産み出し続ける“場”を形成すると考えることができます。このような“場”における動的な振る舞いを真に解明できれば、人間の意思・感情を認識できる意思伝達システム、高度な視覚技能の訓練開発システムなど、理想的なコミュニケーションシステムの構築が可能になります。しかし、そのような“場”における人間のコミュニケーション機能は未だ十分には解明されてはいません。例えば、環境の動的変化が人間の視覚認知に与える影響、複数のモダリティ(視覚、聴覚など)情報を駆使して環境を認識する認知機構や各モダリティ間の相互作用も明らかではありません。さらに、人間型ロボットやインタフェースエージェントなど人間の表情や動きを模擬する人工システムが人間とのコミュニケーションに介在する場合、円滑なコミュニケーションを達成するための違和感の解消や自然性の確保などの課題を解決していく必要があります。本サブテーマでは、このような課題の解決に向けて、動的環境下における視覚を中心とした人間のマルチモーダルな知覚機構の解明を目指します。同時に、3次元動環境を認識し、顔・頭部の発話アニメーションとして表出するインタラクティブなシステムの構築を行い、次世代のコミュニケーションシステムのための基盤技術を創出します。

5.コミュニケーション計算神経機構
 人間の知性の源には、非言語的なコミュニケーション能力があると考えられます。本サブテーマでは、そのコミュニケーション能力の本質、すなわち人間が外界あるいは他者と関わりをもつ際の脳神経系の機能、特に情報処理の仕組みを明らかにすることを研究開発の主眼とします。近年人間の知性と心の問題に真正面から取り組む気運が盛り上がりつつありますが、今なおそれは大変困難な課題です。最大のチャレンジは、人間に対しては電気生理学的手法や解剖学的手法などが利用できないなかで、いかにして心と物質を繋ぐかという点にあります。進歩したとは言え、非侵襲脳活動計測の手法は、上記手法とは比べようもないほど、得られる情報が限られています。そこで私たちは、「脳を創ることによって脳を知る」また「脳を創れる程度に脳を知る」と言う計算論的神経科学の立場から、脳活動非侵襲計測、心理・行動実験、生理実験のモデル化、ロボット工学的手法等のさまざまな手法を組み合わせる多角的な方法論を用いて、脳の入力から出力までの情報処理の仕組みを解明することを目指しています。具体的には、コミュニケーションの基本とも言える運動、学習、注意等の脳機能について計算モデルを検討し、心理・行動実験に基づくシミュレーション、脳磁場計測計(MEG)、fMRIによる脳活動非侵襲計測を通じ、それらモデルの再構築を行います。これらの一連の取り組みを繰返すことによりモデルの精緻化を図ります。さらに、サイバーヒューマン(人間型仮想エージェントからヒューマノイドロボットまで)への実装を通じて計算理論の実証を行います。

6.コミュニケーション創発機構
 人間は、社会的動物と言われるように、他との関わりを求め、その関わりに意味を見出す存在と考えることができます。本サブテーマでは、コミュニケーションを“他との関係性のあり方”と捉え、システムとの相互作用を通じて人々が多様な関係性を見い出すことのできるシステム構成技術の創出を目指しています。ここで、関係性とは、対象とする要素同士が時空間的、構造的あるいは意味的に結びつけられることを意味し、創発とは、要素同士のミクロレベルの相互作用からマクロな構造や状態が生成・出現し、さらには変化・発達するプロセスと定義します。従って、コミュニケーション(関係性)創発機構とは、人間−システム間でやり取りされる情報同士が自動的に結びついて構造化され、その構造化された情報に人間およびシステム各々が意味付けを行い、そのようなプロセスを繰り返しながら構造化された情報とその意味付け自体を変化・発達させる仕掛けのことです。言わば、情報が情報を呼ぶように情報が集合・離散しながら、人間あるいはシステムにとって意味がある“かたち”に情報が自動編集される様子に譬えることができます。そのような機構を用いて、コミュニケーションという行為の基にある人間の本能的な欲求や習性に働きかけることを考えます。人間は自分自身を知り(自己希求欲)、自己を表現し(自己表現欲)、自らの存在の意味を確かめ(存在表現欲)、自らの存在を集団のなかで位置付けたい(関係性欲求、社会帰属・参加欲)という思いをもちます。そのような人間の本能的な欲求を喚起し、そのための情報表現を簡便に支援する技術を創り出すことにより、人々の自発的な情報発信をごく自然に促すことを考えます。本サブテーマでは、(1)関係性創発の基本的な方法論としての進化システム機構、それを核技術として(2)他との関係性のなかで生ずる価値観・評価機構をシステム内に育む人工情動機構、(1)(2)の社会学的な研究展開として、(3)社会の中での人間個々を相互作用する要素として関係性創発機構を適用する社会ダイナミクス、また、近未来における情報通信環境にとって無視することのできない研究展開として、(4)生体内の化学反応をタンパク質や酵素を要素とするネットワークの創発機構と捉える遺伝子ネットワークの研究を行います。

7.おわりに
 人間の日常活動、個人的・社会的な行動や行為もコミュニケーション無しには成立しません。ある意味で人間は外界とのコミュニケーション無しには生存できません。したがって、コミュニケーションの研究は、情報通信分野の技術開発に留まらず、人間の存在、生活、人間と自然との関わりなど極めて広範囲にわたる発展性と応用性を有しています。そのようなコミュニケーションの本質を理解するため、人間情報科学研究所では、「人間を理解する」立場からコミュニケーションに関わる多様な研究を展開し、人間情報コミュニケーションの新たな可能性を拓く先端技術の創出を目指します。人間のコミュニケーションの理解に基づく技術は、現代および将来にわたって人間性豊かな生活をもたらす重要な手段になると確信します。

参考文献


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