自律分散型無線ネットワークの研究開発



1.はじめに
 携帯電話の普及、さらに動画配信も可能な、わが国で世界に先駆けて昨秋から一部始まった第3世代携帯電話サービスと、無線情報通信ネットワークは日常生活におけるインフラとして定着するとともに、モバイルインターネット化も急速に進展している。一方では、モバイル高速ピアツーピア通信、ITS車車間通信のような現在の集中型無線ネットワーク技術に適さないニーズも顕在化してきている。このようなニーズに対応できる技術として、現在の技術と概念が根本的に異なる自律分散型無線ネットワークが注目を浴び、重要となってきている。このネットワークは、携帯情報端末(PDA)のようなパーソナル端末だけで構成され、有線網や基地局等のインフラを必要とせず、また、通信経路途中にある他人の端末を中継器(ノード)として用いることにより通信エリアを拡大できる(マルチホップ通信)。多数の人が集まる場所でいつでも、どこでもネットワークを構成できるという特長を有している。その場限りのネットワークという意味で、アドホックネットワークと呼ばれることも多い。無線アドホックネットワークが狙いとする特性を、図1に示す。現在の移動通信サービスと比較して、通信可能な距離は限られるが、優れた伝送速度を実現でき、通信コストが原理的に不要である。インフラに依存する度合いが少ないということから、被災地、展示会、キャンパス等広範な応用が期待できる他、情報家電や工場内の機器リンク、センサーネットワーク等、ユビキタスネットワーク実現の根幹をなす技術である。さらに、第4世代移動通信において、サービスエリアを拡大できる技術としても注目されている。近年、アドホックネットワークに対する関心が高まり、それに特化した国際会議等も開かれるようになってきている。しかし、実験の困難性から、ほとんどの研究がシミュレーション実験に留まっている。このため、実環境におけるレイヤ間に跨る研究開発の必要性が急務となっている。当研究所は、自律分散型無線ネットワークの実現に不可欠な基盤技術の構築を目的として、物理レイヤから上位レイヤまでの技術について総合的に研究開発を進めている。ここでは、その概要について報告する。

2.研究課題の概要

 (1)ネットワーク構成・制御技術、(2)ネットワーク総合理論、(3)パーソナル無線リンク、(4)マイクロデバイスの4サブテーマを設定し、デバイスからネットワークまで総合的に研究開発を推進する。特に、アンテナの指向性を変化させたときのシステムの特性に与える影響を重点的に探索する。研究アプローチとして、
(ア) 物理レイヤから上位レイヤまでの基盤要素技術に取り組む。(イ) テストベッドを含む実証実験により、要素技術、システム技術の課題を実験的に明らかにする。(ウ) 当所で独自に開発した、技術を最大限に活用する。の3点を特色とした研究開発を進める。以下に、サブテーマの詳細を記述する。
2-1.ネットワークの構成・制御の研究開発
 自律分散型無線ネットワークの技術的特徴は、端末での分散制御にあるだけでなく、移動によりネットワークトポロジーがダイナミックに変化し、また各リンクは無線に特有な伝送特性の変動をともなうという点にある。さらに、従来のセルラー網のMAC(メディアアクセス制御)は1ホップを対象としているのに対し、アドホックネットワークでは、マルチホップを前提としておりその挙動は複雑なものとなる。本サブテーマでは、自律分散型無線ネットワークの構成法を明らかにするため、大別して以下に示す3テーマ(図2参照)に関して研究を進める。第1のテーマは、MACプロトコル、ルーティングプロトコルの研究で、ノードの総数、密度、モビリティなどを変化させたときのプロトコル特性を理論的に検証し、シミュレーションによる評価を行う。さらに、電力を制限したラボ内規模のテストベッドを構築して、実験的に評価してフィードバックを行うことにより、最適のMACプロトコル、ルーティングプロトコルを設計することを目標とする。本テストベッドにより、アドホックネットワークの特性を踏まえたネットワーク構成要素技術であるMACとルーティング技術を合わせた特性評価が可能となる。特に、無線リソースの有効利用の観点で、物理レイヤにおいて指向性アンテナを用いることの有用性が認められていることから、レイヤ間のインタラクションをまず無指向性アンテナについて検討し、その結果をベースに、指向性あるいはアダプティブアンテナを用いた場合のMACプロトコル、ルーティングプロトコルの特性を明らかにする。第2のテーマは適応的品質制御法の研究で、ユーザ要求を満たす複数のレイヤのQoS(サービス品質)機能を階層構造により関係付けたQoSモデルの理論的特性/メカニズムを明らかにし、ユーザ(最上位機能)からシステム(最下位機能)までの適応的QoS機能構造を統合する枠組みを提供する。また、マルチホップ通信で特に重要な課題となる適応的なセキュリティ機能の検討を進めるとともに、有線で蓄積してきた多様なアプリケーションをアドホックネットワーク上で利用するため、無線環境、マルチホップを考慮した無線TCPを開発する。さらに、分散型マルチメディアアプリケーションにおいて複数のメディア特性に適応したコンピューティング資源管理方式を処理系プラットフォームとして提供する。第3のテーマは、アプリケーションの研究で、双方向の音声アプリケーション(VoIP)をターゲットに、アドホックネットワーク向けの帯域制御や遅延制御技術を検討し、アドホックネットワーク上でのマルチメディアサービスの実現を目指す。また、アドホックネットワークにおけるコミュニティ形成としてユーザの振る舞いによって物理的に近接した端末同士がプッシュ型で自律接続することにより実現される情報ネットワーク技術(CoCoNutと名付けている)を検討する。
2-2.ネットワーク総合理論の研究
 自律分散型ネットワークのデータリンク層におけるMACとネットワーク層におけるルーティングは渾然一体となっており、それらを単純に分離し、階層化して取り扱えるか等の基本的な問題は必ずしも十分に明らかにされていない。本サブテーマでは、無線アドホックネットワークのMAC/ルーティングについて、その基本性能の明確化、総合特性の評価を行い、それらに横たわる一般的法則を探求する。同時に上述の階層化の可否についての問題への回答を与え、機能配分、帯域等リソース配分の最適化を試み、同ネットワークの評価指針、設計指針に言及する。これにより、伝送距離(ホップ数)や収容可能端末数といったネットワークの規模、伝送速度、スループット等の能力、端末の許容移動度等を明らかにするとともに、これに応じた適用領域を技術面、シーズ面から明確化する。また、具体的なMAC/ルーティングプロトコル抽出のための糸口を与える。これらの検討は、特に、アンテナの指向性を取り入れたシステムへの展開に留意して進める。スループットに関して得られる定性的な予測イメージ図を図3に示す。手法としては、理論、計算機シミュレーションを用いる。MAC/ルーティングにおける接続失敗率、遅延時間等の解析を、簡単な確率モデル、待ち行列モデルから出発して、理論的に進めていく。また、MAC/ルーティング技術のITSへの適用を試みる。具体的には、交差点での衝突防止、高速道路における追突防止や協調走行等を実現するための車車間通信を取り上げ、リンクの確保、情報のホッピングについて検討し、MAC/ルーティング技術の普及展開を図る。本サブテーマのもう一つの課題は、無線アドホックネットワークの新しいニーズの把握、新しいニーズを喚起するための方策の提示、提供されるべきサービスイメージの明確化、ユーザの視点に立った評価の枠組みの構築、ネットワークの機能や性能に対する要求条件の明確化についての研究である。これらの研究を進めるにあたっては、アンケート調査、市場調査、市場形成の分析を通して、無線アドホックネットワークがユーザに受け入れられ、使用されるに至るメカニズムを探る。また、ユーザの視点に立った評価コンセプトや尺度の検討を行う。
2-3.パーソナル無線リンクの研究開発
 自律分散型無線ネットワークは、バッテリー動作の携帯端末だけで構成されるため、有限の電波資源である「周波数」と「電力」をいかに有効利用できるかがシステムとして成立するかどうかの重要なポイントとなる。本サブテーマでは、アンテナの指向性を応用したSDMA(空間分割多元接続)による周波数と電力の拡大利用を意図して、今まで開発が十分行われてこなかった端末搭載用アダプティブアンテナの実現を目指す。低電力、低コストかつ簡易構造のアダプティブアンテナを実現するため、アンテナ素子のうち1本だけを給電素子とし、残りの素子には給電せず可変リアクタで終端した当所考案のエスパアンテナの適応動作の高度化を図る。リアクタの値を直流電圧で制御することにより、アンテナビーム形成を空間ステージで行うものである。アンテナハードウェアの簡易化、小型化と、電波環境に応じて電波ビームを所望方向へ走査し、かつ、干渉波を抑圧するための適応制御アルゴリズムの開発に取り組む(図4参照)。アダプティブアンテナを動作させるには通常は、トレーニング信号を送信パケットの先頭部分に含ませる。このトレーニング信号はシステム側の新たな負担となり、実用に供する段階で普及の大きな障壁となる可能性がある。そこで、トレーニング信号を不要とするエスパアンテナ制御ブラインドアルゴリズムを最終的に目指す。アンテナの干渉抑圧機能の実証後、自律分散無線ネットワークシステムの端末に搭載し、テストベットを用いてネットワーク性能向上検証試験を行うとともに室内伝搬環境にて運用試験を実施する。従来のアンテナ測定検査は大型の電波暗室を必要とし、これが測定検査コストの低減の大きな障壁となっている。このため、2つ目のテーマとして小型電波暗箱の中での測定法を目指して、マイクロ波フォトニクスデバイスを駆使することにより、被測定アンテナ素子の極近傍電磁界を本来の電磁界に擾乱を与えることなく測定する技術を開発する。自律分散型無線ネットワークで動画を含む多様な情報を伝送しようとすると、光を利用した無線リンクが有利となり、将来の端末には、電波と光による無線通信機能が標準装備されることが予想される。光の波長が電波に比べて著しく短いことからアンテナの指向性を非常に鋭くすることができ、より大きなSDMAの効果が期待できる。そこで、第3のテーマとして、光無線リンクの基盤要素技術である、ユーザによるポインティングの必要がなく、また、光ビームの遮断による通信の中断が少ないロバストで使いやすい光送受信技術に重点化した研究を進める。具体的には、ビーム制御方式、変調方式、通信プロトコルの条件を明らかにするとともに、マイクロデバイスを使用した小型化の可能性について検討を行う。
2-4.マイクロデバイスの研究開発
 光無線リンクにおける小型光送受信モジュールの実現には、信号伝送媒体の光ビームの受光と発光の方向を通信相手の方に向けるビーム制御機能が重要である。本サブテーマでは、光ビーム制御等の機能を有する光無線リンクのキーデバイス“マイクロデバイス”を開発するため、MEMS(Micro Electro Mechanical System)と呼ばれている微小機械技術を活用したデバイスの材料、設計技術、作製技術、ならびに評価技術の課題について研究を行う。デバイスとして、発光、受光、およびマイクロミラーデバイスを研究の対象とし、GaAs系をベースとする化合物半導体を基本的な材料系として選定する。発光および受光デバイスについては、アレイ化や集積化が容易な面発光レーザ(VCSEL)、発光ダイオード(LED)および光デテクタ(PD)を試作する。マイクロミラーデバイスなどの微小光学デバイスでは、光を効率良く反射・制御する構造を考案する。発光デバイスおよび受光デバイスとマイクロミラーデバイスを集積化することにより、光ビーム出射方向と受光感度の指向性制御機能を実現する。図5に、イメージ図を示す。これらのデバイス作製と集積化にあたっては、当所独自の横型接合作製技術とマイクロオリガミ(MEMS技術の一種)を活用する。前者と後者の技術はそれぞれ、簡単な構造の高性能光電子デバイスが作製できる可能性と、複雑な構造の3次元微細構造が作製できる特長を有している。両技術を活用し、従来にない高性能光ビーム制御デバイスの実現を目指す。さらに、光ビームの動的制御や回折光学系による高機能・高性能化を追求するため、熱や静電力などによる駆動機構とサブミクロンレベルの微細化も検討する。また、光無線リンクに利用する光の波長は、目に安全なアイセーフ条件を満たすため、上記のデバイス開発と並行して、GaAs系で1μm以上の長波長発光が可能な自己形成量子ドットとGaInNAsの研究を進め、1.3μm〜1.6μmを目標にVCSEL、LEDおよびPDの長波長化を目指す。さらに、将来の課題として、シリコンVLSI技術との融合を狙いとしたSiGe系マイクロオリガミ技術による微小素子作製と、マイクロオリガミの高周波デバイス応用を検討する。

3.おわりに

 当研究所は、ATR環境適応通信研究所の成果を継承する形で設立された。これまでの人的、技術的蓄積を最大限活用していくとともに、共同研究等も含め効率的に研究を進め、特徴ある成果に結び付けたい。



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