量子カオス
−ミクロなデバイスに現れるカオスの効果−



1.はじめに
 20世紀の人類の生活を最も便利にしたものの1つはエレクトロニクス技術であるといってよいでしょう。その中でも大規模LSIは、パソコンばかりでなく、ほとんどすべての電気製品を制御するために用いられており、エレクトロニクスの頂点を極めています。このLSI技術は新しい21世紀にも発展を続け、ますます我々の生活を向上させてくれることでしょう。
 このように素晴らしいエレクトロニクス技術を支えている基礎は電磁気学と半導体物理学です。これらの知見を最大限に利用したデバイスがLSIです。そしてLSIの動作をなるべく早くするために、できるだけ小さく作ることが追求されてきました。ところがそのようなデバイスの微細化をどこまでも進めて行くと、これまで拠り所としていた電磁気学がこれまで通りには当てはまらなくなります。その理由は、原子や分子サイズのミクロな世界を支配している物理法則が、普通の大きさの世界(マクロな世界)を支配している物理法則とは異なるからです。そのようなミクロな世界は量子力学とよばれるもので記述されるのです。

2.ナノエレクトロニクス
 量子力学は20世紀の初めに発見されました。この量子力学に従うようなミクロな世界で起こる現象を量子現象といいます。ところで、LSIの材料である半導体は量子現象を応用して開発されたものです。またレーザーも量子力学の発見があって初めて開発できたデバイスです。しかし、これら半導体やレーザーなどのデバイスは確かに量子現象を応用しているものの、デバイスの動作を制御する部分はそれほど小さくないのです。そういう意味では、ミクロな世界で起こる量子現象を直接的に制御して利用しているというよりも、量子現象がある程度マクロな世界にまで影響し少し顔を出すところを上手くコントロールすることで利用しているわけです。
 一方、最近では半導体微細加工技術が飛躍的に進歩しました。そのおかげで、これまでとは違って量子現象のよりミクロなレベルでの直接的な利用を探求できるようになってきました。そこで、20世紀に大発展を遂げたエレクトロニクスを超微細な量子の世界にまで拡張することも夢ではなくなりました。このようなミクロな世界をコントロールして従来考えられなかったような新しい機能を持つエレクトロニクスデバイスを開発する基礎を与えるようなナノエレクトロニクスとよばれる研究分野には非常に大きな期待が寄せられています。ナノとはセンチ、ミリなどと同じような単位 で、ミリの100万分の1の大きさを表します。そのくらい小さな世界で起こる物理現象を制御し利用するのが新しい21世紀のエレクトロニクス技術となるのです。

3.量子ドット
 ナノエレクトロニクスにおける信号の担い手である電子を2次元の平面内のある領域だけで運動するようにできます。これはビリヤードのようなものです。ただし、このミクロなビリヤードでは、ボールが電子で、台が半導体です。このミクロなビリヤードを量子ドットといいます。
 量子ドットのデバイス応用として、量子ドットに電子が流れ込み再び出て行くことを考えるのが、従来の電子デバイスとの類推として自然です。このような量子ドットの電気伝導はナノエレクトロニクスの典型的な例です。

4.カオス
 ところで量子ドットでの電子の運動については、直観の効かない量子力学では考えにくいので、まずは我々が普段慣れ親しんでいるようなビリヤードを想像してみましょう。ここではボールの回転や台との摩擦は考えなくてよいとします。したがって、ボールはスピードを落とすことはなく、台の端にぶつかるたびに跳ね返されます(エアーホッケーの方が近いかも知れません)。このようなボールがビリヤード台の壁で何度も反射するような運動を考える場合、台の形が大変重要となります。 たとえば、円形の台ならば、電子は図1(a)のような軌跡を描きます。ところが、競技場のような形をしている場合には図1(b)のような複雑な軌跡となります。このように運動法則自体には確率的な要素がないにも関わらず、予測不可能なことが起こる現象を決定論的カオスといいます。

5.量子カオス
 さて量子ドットでの電子の振る舞いを調べるには本当は量子力学を用いて考えるべきです。それでは前節のような古典力学による考察はまったく無意味かというとそうでもありません。なぜならば、量子力学による記述と古典力学による記述はある程度対応が付くからです。したがって、予測不可能で複雑な運動であるカオスも何らかの形で量 子現象に影響を及ぼすと考えられます。そのようなカオスの量子力学的な顕在現象を量子カオスといいます。

6.ナノエレクトロニクスと量子カオスの出会い
 量子カオスの理論研究は量子ドットの作製技術のない頃から始まっていました。そこでは、実際には存在しないミクロなビリヤードを架空に設定して議論が行われました。それほど、ミクロなビリヤードは量子カオスの理論研究に適した舞台だったのです。
 ところが、その後、最先端テクノロジーの進歩によって、ミクロなビリヤードは物理学者の空想の世界から飛び出し、量子ドットとして具現化されたのです。そして、ミクロなビリヤードの量子カオスについて蓄積された理論的な成果 を実験で検証しようという試みが始まりました[1]
 このようにして、理論的な研究の先行していた量子カオスは、量子ドットの電気伝導特性へと応用されることによって、新しいナノエレクトロニクスに大きく貢献できるようになったのです。

7.おわりに
 カオスの量子効果が現れるようなミクロなビリヤードは、量子ドットのような電子デバイスだけでなく微小光共振器レーザーでも実現できます。私たちは、量子カオスを量子ドットや微小光共振器レーザーに応用したナノエレクトロニクスデバイスの基礎研究を行っています[2〜5]
 ところで、これらのデバイスは、成熟した現在のエレクトロニクス技術に取って代わるものではないということに注意することは重要です。成熟した技術を用いる方が設計通り安定に動作するデバイスを作ることができるのはいうまでもありません。このような観点から考えると、ナノエレクトロニクスは従来のエレクトロニクスと相補的なものとして用いられることでしょう。
 したがって、ナノエレクトロニクスは、たとえば、従来のデバイスでは不可能なほど微小な場所にどうしてもデバイスを用いたいというような場合に必要となるでしょう。それは、バイオテクノロジーとの融合ということになるかも知れませんし、あるいは量 子コンピュータや分子コンピュータなど新しい原理に基付く計算機の部品ということになるかも知れません。大切なことは、ナノエレクトロニクスの基礎物理学を確立しておくことです。最先端のデバイスの多くは、理論よりも技術的な試行錯誤の繰り返しによって作り上げられていくものですが、その根底には、必ず、それを支える基礎理論があるのです。
 今後ナノエレクトロニクスがどのような場面で必要となるかということを考え、その結果 をナノエレクトロニクスの基礎物理学としての量子カオスの研究にフィードバックして行くことが重要であると考えています。

参考文献


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