


枠組はなるべく大きく構えよう
(株)ATR国際電気通信技術研究所 顧問 葉原 耕平
私は多少天邪鬼な傾向があり、時々他人とは違った発想をしたり敢えて違う面から考えたりすることがある、と自分で思っています。今回はそういう類の話題です。話を分かり易くするため自動翻訳電話などのいわゆる「話し言葉」を題材にしますので、生々しすぎて具体的に研究に携わっている(きた)方々には差し障りがあるかも知れませんがご容赦ください。
(1) 日本語の話し言葉には省略が多い?
ATRでは発足当初から話し言葉を中心に同時翻訳の研究が精力的に進められています。その課題を外部の方々に短時間でご説明するには「日本語の話し言葉では主語や目的語などがしばしば省略されるので、英語にする時それらを的確に補わねばならないのが問題を難しくしている一つの要因です」などと申し上げると大抵は「なるほど、それはそうですね」と問題の一端をご理解いただいたものでした。
しかし、本当は私はこれは「嘘も方便」と割り切っていたのです。結論から先に述べます。話し言葉では主語や目的語などは省略されるのではなく場合によっては初めから不必要なのです。対話をしている時の雰囲気、身振り手振り、そういう類の情報と合わせると主語や目的語は自ずから明らかだからです。つまり、言葉以外のいわゆる非言語情報、それもその瞬間の3次元空間的な広がりだけでなく前後の会話の展開、さらにはそのベースとなるお互い暗黙の諸知識などとも合わせて全体で必要かつ十分な情報は得られているのです。
ところが、小説などの書き言葉になるとそういう周囲の非言語情報がほとんど欠落してしまい、声音(こわね)やイントネーション、気分など電話では伝わる情報さえも失われます。そこで何とか語彙を駆使してこれらの失われた情報を補わねばならず、その結果、自然会話では自明な「彼は」とか、あるいは情景描写などが必要になります。ですから、書き言葉に対して話し言葉の方が省略が多い、というのは実は逆で、書き言葉では欠落した周囲情報を苦労して補うことに努めているにも拘わらず、それでも十分ではない、というのが本当なのです。その裏返しとして話し言葉やマンガなどでは、コトバの持つ深い意味がついないがしろにされる危険がある、とも言えそうです。
しかし、同じ話し言葉でも自然な日常会話と電話の会話はまた違います。それは電話でも声音(こわね)やイントネーションなどはかなりリアルに伝わりますが、それ以外の主として映像に関する周囲の非言語情報は書き言葉と同じようにがほとんど失われてしまうからです。同じような意味ではマンガはまた別な問題を呈します。映像情報はある程度伝わりますが、時々刻々の雰囲気や声音(こわね)、イントネーションのリアルさは伝わり難くなります。随所に現れる文字化された擬音、「!」などのマーク類などはそれらを何とか表現しようとしているのでしょう。
私は話し言葉と書き言葉の違いから、という発想ではなく、いずれもが自然な環境に比べてそれぞれ一部の情報しか使えず、あとの失われた情報を別手段でいかに補うか、それが現実の電話や書き物の現象である、という、いわば対極からスタートする発想の方が自然だと思っています。
(2) 英語の功罪
さて、日本語の話し言葉は英語に比べて主語などの省略が多く、また欧米語の方が論理的だ、とよく言われます。裏返せば英語に比べて省略が多いので大変だ、という訳です。ではこの種の省略は日本語に比較的特有なのでしょうか。実は必ずしもそうでもないのです。
まずお隣韓国のハングルはその点を含めて文法全体が日本語と酷似しているそうで、日・韓翻訳はコトバの置き換えで済むようなのが多いようです。西欧語では省略の典型はスペイン語です。スペイン語、ことに日常会話では主語代名詞(英語のI,
youなどに相当)はほとんど省略されます。その代わりほとんどの動詞が人称(一人称、二人称・・)や単・複、時制などで語尾変化して発音もほとんどすべて異なります。スペルが同じでも、アクセントの位置が異なります。その結果、主語代名詞がなくても発音を聞くだけで主語は明らかだ、という事情があります。この点日本語のいわゆる主語の省略とは少し趣きは異なりますが、省略が多い、という現象面だけでは日本語と酷似しています。これと少し違うのが同じラテン系でもフランス語です。フランス語もスペイン語同様語尾変化し、スペルが変わります。しかし、発音は、例えば単数形では一人称、二人称、三人称通して大抵同じです。したがって発音だけから主語を知るということはできません。多分それが遠因でしょうが、フランス語では大抵の場合、話し言葉でも主語の省略はありません。この二つの例から、何らかの手段で情報が得られるなら(スペイン語は発音だけで)なるべく余計な(重複する)情報は省こう、やむを得ない場合は残そう、という方向で発展してきたように思います。また、イタリア語はフランス語よりはスペイン語に近く、大抵は語尾変化とともに発音も変わりますので主語も大抵省かれますが、異なる人称でも発音が同じという場合がままあり、それでも結構主語を省いてしまいます。文脈という情報もありますよ、ということなのでしょう。
ここで英語に立ち戻ってみましょう。英語ではどなたもご存知のようにbe動詞のような不規則動詞は別として大半の動詞は三人称単数現在形で語尾に“s”が付くだけであとは形も発音も同じで、発音だけから言えばフランス語型です。ドイツ語はその中間です。したがって英語ではフランス語同様主語代名詞(I,
you ・・)が付けられるのだろうというのが私の想像です。ところが英語は今や世界語になり、それが西欧語の代表のように思われている結果、西欧語では論理的に主語をキチンと付けるのに日本語はいい加減で省略が多い、というある種の誤解に繋がっているのではないかと思う次第です。表はそれらを整理したものです(言語には例外がつきものですが)。
また、英語では単・複を厳密に区別する習慣があり日本文学を英語に翻訳する際どちらでしょうか、と聞かれて難渋することがある、という話があります。しかし、もとの日本文学ではそのこと自身(単数か複数か)は本筋に関係ないことで、そう聞かれても実は全体の流れの中では余計なことなのです。その一方で羊は何頭いても十把ひとからげで単・複のない
sheep だということはご存知の通りです。あるいは英語で rain と言われれば「時雨」でしょうか「驟雨」でしょうか「五月雨」でしょうか、などと我々なら逆に聞きたくもなります。文化の違いで、言って見ればお互い様です。
(3) 気になりがちな欠点と見落としがちな長所
語学が専門でもない私がもっともらしい話をしました。たしかに日本語の話し言葉では見かけ上主語が省略されて翻訳上厄介だなど、いわば欠点が先に目につき勝ちで、これを克服する研究が大切であることは論を待ちません。ですがその一方で書き言葉では欠落している声音、イントネーションなど豊富な情報が得られるのです。これらの恵みを利用しない手はありません。つまり、やれ主語がないとかその他多くの現象は「ことば」という枠にのめりこんで考えるからそれ以外の情報の恵みに気づかないのであって、枠組を全体に広げれば研究の展開方向や手法、意義付けなどまた一味も二味も違ってくる可能性があるという訳です。
こういう大きな枠組で見れば人のコミュニケーション行動は全体との調和の上で無駄を省いたり大事なことは強調したりと、結構最適化、省エネ化が図られているとも言えそうです。
今回はたまたま言語翻訳を話題に取り上げました。一言で言えばなるべく大きな枠組で物事を見てみよう、ということです。研究も世の中の出来事のほんの一画を占めるに過ぎません。研究という狭い枠組に捉われるべきではない、と私は思います。
