ATRでは研究者だけでなく多くの人たちが入れ替わります。それはマンネリ化を防ぎ活性化に繋がるというメリットの反面、キーコンセプトさえ継承され難くなるデメリットも併せ持っています。早い話、途中から参画した人たちにとっては「初心」と言われてもそれはもともと知らないに等しいことです。そこで今回からそういうことについて順不同で私見を述べることとします。話の性格上、これまでのシリーズより硬めになるかと思いますがご容赦下さい。今回の主題は「研究の自由」です。
(1) ATRという会社の目的
ATRはジャーナルの裏表紙に書いてあるように「電気通信分野における基礎的・独創的研究の一大拠点として内外に開かれた研究所」を標榜し、株式会社形態で設立されました。世の中には立派な研究所を持っている会社が数多くあります。しかし、それらの研究所はいかに大きくても第一義的にはそれぞれの会社の事業目的達成に貢献することが求められるでしょう。それに対してATRは「研究を行うこと」自身が会社の目的で、これが世の中の多くの研究所と抜本的に異なる世界的にもユニークな性格で、すべての努力はそれに傾注されます。それゆえに、ATRの運営はそれ自身大変チャレンジングであると同時に壮大な社会実験でもあります。
(2) 基礎研究と自由
基礎研究には「自由」が必要で大切だと言われます。多分そうだと思います。しかし、ただ自由が必要だ、自由にやらせろ、というだけで世の中通用するでしょうか。私は「自由」ほどきつく辛いものはない、とさえ思っています。それは「自由」と「野放図」あるいは「身勝手」は峻別しなければならないという至極当たり前のことの裏返しです。また「自由」と「独善」はまったく似て非なるものです。そして一番大切でかつ難しいことは「自由」は天から降ってくるものではなく自ら勝ち取り維持すべきもので、それは決して生易しいものではないということです。「自由」には「責任」が伴います。さらに「成功するも自由、失敗するも自由」です。が、結果はその良否を問わずツケを持って行く先は自分自身しかありません。考えて見ればこんな厳しい環境は他にあるでしょうか。例えば、自由がないとブツクサ言いながら、うまくいかなければそれは上司の指示が悪い、会社の方針がおかしい、などという逃げ道はないのです。凡人には言い訳や憂さ晴らしのぶっつけ先がある方が有り難いかも知れません。
(3) 自由と自制
世の中には色々な規則や規制があり、自由を謳歌したい人には窮屈で煩わしいかも知れません。しかし、それはその社会や会社や団体などである秩序を保つために必要なものでもあります。このとき、性善説で規則類はなるべく少なく、という立場もあれば、いやいやそんなことでは人々は何を仕出かすか分からない、規則はできるだけがんじがらめの方がいい、という性悪説的立場もありうるでしょう(ついでに近代西欧社会は性強説、日本社会は性善説、そしてイスラーム社会は性弱説に立つ場合が多いという簡明な説もある:片倉もと子著「イスラームの日常世界」岩波新書)。
私は個人的には各個人がそれぞれの立場をわきまえて行動する限り、規則はそれでも起こりうる誤解などを避けるような最小限に留めるのが理想だと思います。しかし、それは全員がそういう規範を守る、あるいは自制するという、これまた多分100%はありえない前提があってのことでしょう。つまり、手にしたい自由度は自制度に比例する性質を持っているように思います。
(4) 再び「由らしむ可し、知らしむ可からず」
私はこのシリーズの二回目に、この論語の言葉には普通世の中で思われているのとは異なる解釈がある、ということを述べました。それは「民は由らしむ可し」とは「詳しいことは分からないが、あの人なら黙ってついて行こう。従おう」という気持ちを民衆に抱かせることが為政者のなすべきことで、そのためには自ら知を磨き徳を積む必要がある、ということで、こちらの方が正しい解釈とされています。
この考えは研究者にも当てはまります。ATRでの研究は多くのいわゆる事務系の方達、さらには外部の方々の理解と努力に支えられています。そういう人達の立場から「ああ、さすが研究者だ。研究の中身の詳しいことは分からないが、一生懸命研究に打ち込んでいる上に、我々のこと(多くの下支えの苦労:ここで[下支え]と思うのも本当は思い上がりですが・・)も考えてくれ、立派なものだ。何としても支援しなければ・・」というように思って貰えることが大切なのです。同じようなことは研究者相互についても言えます。数世紀に一人というような超天才はいざ知らず、多くの研究者は上司、同僚など周りの理解と協力があってこそ相乗効果も含めていい成果が出せるというものでしょう。それには「彼なら自分も今忙しいけど一緒に相談に乗ろう」というようなことが大切で、そのためには独り善がりや思い上がり、身勝手な行動は厳に戒めるべきだと思います。
(5) 自由を自ら失う早道
上に自由を勝ち取り維持するのは生易しいことではないと述べました。その代わりそれを失うのはいとも簡単です。そして、実際にはそれを(恐らく無意識に)地で行ってしまい勝ちなのです。
ATRでは研究者にはできるだけ自由を、と誰しも思っていることでしょう。しかし、それに甘えてルーズになっては周りが迷惑を蒙ります。ましてや、気ままな人に有り勝ちな組織無視、ルール無視など決して誉められたものではありません。具体的な事例があるわけではありませんので、それらは読者の皆さんの想像にお任せします。一番簡単なことは、自分がそれと見聞きすれば恐らく顔をしかめたり、少し傍若無人ではないか、と思うような、何度も言いますが二人称の立場で考えさえすればすぐ分かるような行動です。そういう行動は知らず知らずのうちに表に出るものですが、実はその裏には慢心と思い上がりが潜んでいるのです。研究者は偉いんだ、などというのは天動説です。最後はその天に唾することになり兼ねません。これらは研究者以前の人間性の問題でもあります。
このような行動は起こり得るとしてもごく一部の人がきっかけでしょうが、起こしてしまえば一事が万事で周りは段々と疑いの目で見始めます。そうなると、全体の規律を維持するためにはやはり規制や規則が必要だ、ということになり段々と窮屈になっていき、結果的に多勢を巻き込んでしまいます。こうして一旦信用を失い始めると、後は坂道を転がり落ちるようになる危険を孕みます。さらには「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で研究の質まで疑われ兼ねません。何しろ門外漢にはあまり分からない内容が多いのですから。そして、何かと目の仇にされるようになれば「貧すれば鈍す」で研究内容も落ちぶれる危険を孕みます。駄洒落を一つ。「売家の唐様も書けぬ四代目」。平均以上に自由が欲しければ、平均以上の自制が求められます。自制度と規制度は反比例します。
(6) PR のひとつの意義
上に述べた、為政者は常に自ら知を磨き徳を積む必要がある、ということもまた研究者に当てはまります。自ら研鑚に励むことです。しかし、いくら自分はそうしていると言っても、ある程度それが外に見えなければ第三者には判断のしようがありません。そこに適切な、つまり実力と歩調を合わせたPRが必要になります。この情報過多の時代に
PRもせず、自分は素晴らしい研究をしている、知らない方がおかしい、というのは思い上がりです。適切な論文発表などは基礎研究者の義務でもあります。が、大風呂敷ばかり広げていては人々は信用してはくれません。研究成果の積み上げが段々と定評になっていきます。反面そのことも実は大変怖い落し穴でもあります。実績を積み定評ができればできるほど迂闊なことはできにくくなります。個人でも組織でも無名も辛く切ないでしょうが名声を維持するのも楽なことではありません。名をなしたプロの選手が苦しみ悩んでいるのと一脈相通ずるところでしょう。これらはほんの一例です。一言で「自由を」という周りにはこんなにも多くの問題が存在します。