『層論』と『格論』




(株)国際電気通信基盤技術研究所 顧問 葉原 耕平



 このシリーズ二回目の記事で、ATRがスタートした時は小さな世帯で実質無階層だったと述べましたが、その後組織も発展し現実には○○部△△課など少しですが階層組織になっています。今回はその意義や活用について考えてみたいと思います。私の言う「層論」です。

(1) “はんこ”と責任の所在

 えらく時代掛かった表題のようですが、この日常的かつ日本的なこと、皆さんは何のためどういう意識ではんこを押しているのか、などを原点に返ってお考えになったことがおありでしょうか。はんこが古臭いと思えば西欧式にサインと置き換えてもこの小論の精神は同じです。当たり前のことですが“はんこ”は責任の委譲と深く係わっています。例えば [決裁者:○○万円以下部長・・] などです。
 しかし研究を主業務とするATRでは、あまりがちがちした縛りや定めは必ずしも実態にそぐわないことがあります。例えば外部発表許可などは誰が最終決裁をするかを含めて各研究開発会社社長の裁量に任されておりました。しかし、私は全研究開発会社の代表取締役会長でもありましたので、重要な国際会議、学術誌など影響度の高いメディアへの投稿は私まで上がってくるのが普通でした(各社長がそれを必要と判断したということでしょう)。ATRジャーナルの記事もその一つです。
 この場合を例に“はんこ”を押す意味を考えてみます。問題を明確にするため、建て前の話しをします。研究開発会社の場合、担当者、リーダ、研究室長、社長と順にはんこが押されるのが普通です。その際、それぞれの立場では最低限そのレベルに応じた責任を持ってはんこを押すのが望ましいと私は思っています。具体的には、リーダくらいまでは科学技術的知見・内容の面で責任を持つことが求められます。室長や社長など上になればポリティカルな判断の比重が増してくるでしょう。それらは担当者には必ずしもわからない事柄だからです。従って、そういう立場から内容を修正させるのはむしろ上位者の義務です。そういうこと以外の純科学技術的内容、読者に読みやすいかどうか、などはポリティカルな判断とはあまり関係ないことです。建て前だけ言えば、これらは下位レベルで完結済みで、その前提で押印されているのが理想です。欲を言えば上司のレベルまで想像してアドバイスなり意見交換をした上ではんこを押してほしいものです。

(2) 部下の信頼を失う早道
 ジャーナルの場合でも、私の立場では例えば重要テーマの扱い、時期や社会的な配慮はどうか、などの視点での示唆程度にとどめたいのですが、現実は中々そうは行かないのです。「専門的過ぎて何と読みにくいことか」という一番初歩のレベルのことがしばしばありました。そこで社長なり室長に「担当者には何と言ってあるの?」と聞きますと、大抵「これでOKしました」と言うのです。はんこも押してあります。ここで問題。皆さん、中間管理者が部下に対して自らの権威を失い、かつ上が小うるさい、と思わせる手っ取り早い方策を考えてみてください。案外、地で行っています。一旦OKが出たのに上から直された。OKも当てにならない、となると部下の信頼は容易に失墜します。
 そこで手の内をばらします。私は例えば次のように入れ知恵せざるを得ないのです。「わかった。次のようなコメントをしてもう一度担当に戻しなさい。“あの時OKと言ったあとも考えていたが、話の流れの中に一般読者には必ずしも不必要な細かい説明が多少入り組んでいるように思う。一部脚注に廻すなど、もう少し工夫して書き直して下さい。二三ヒントを書き加えてあるから”と。その際、私のところで差し戻されたとは口が裂けても言わないように」。こうして私の意見は彼らの口を通してのみ下に伝わるように仕向けたのです。ところが中には「あとは会長の意見を聞きなさい」と言ってしまったという場合があるのです。これはお手上げです。さらに言えば、テーマの大枠は編集委員会の責任で決められており、私もそれには口出しする立場にはないのです。
 私なりの答えを述べます。中間管理者はそのレベルに関しては責任を持ってOKすべきです。自信がなければ「よく見るからね」などと時間を稼ぎ、その間に上司の意見を聞いた上でOKを出すのです。すると、忙しい中時間をかけてよく見てくれた上に一旦OKが出れば後はすいすいと上まで通る、ということで下からの信頼が深まるというものです。また、何度か上とやり取りしているとコツがわかり、相談なしで自信を持って決裁できるようにもなるのです。私の狙いはむしろこちらでしたが。ついでにもうひとつ、よく説明に部下を同席させる人がいます。部下のPRなどそれはそれでうまく使うべきです。いい話なら上司の目の前で担当を誉めるのは効果的です。しかし、逆の場合は困ります。どちらを責めても問題です。上と一緒になって部下を責める人さえいますが、これは最低です。
 古めかしい“はんこ”を題材に具体例で説明しましたが、要は組織にはおのずと機能分担とそれにともなう責任があるということが、その行為を通して再認識できると思ったからにほかなりません。


(3) 決裁と供覧

 組織が大きくなると安全のためと思うのか不必要に“はんこ”が多くなる傾向があります。これは意思決定を遅らせるだけで百害あって一利なしです。“はんこ”は権限委譲された人までで十分です。しかし、一方でそういうことが行われていることを周囲が知っていた方がいい場合もよくあります。私は例えば外部から講演のご依頼を受けた場合、多くはATR-I(国際電気通信基礎技術研究所)の副社長研究開発本部長の立場で私限りで判断しました。建て前だけですが社長から「それは困る」と言われてもそれは困ることですから。ですから、事務方に決裁欄と供覧欄を別けた様式を作って貰い、決裁は私止まり、そして社長まで供覧ということもしました(堅苦しく言えば文書の様式を考えるのは私のラインの仕事ではなく越権でしたが:次項)。

(4) 然るべき立場の人が然るべき行動を
 ATRくらいの小さな組織では臨機応変の行動が必要です。だからと言って組織や規則を無視していいというものでもありません。私は「会社として本来○○部が考えるべきことだ」ということに気付いたような場合、内々に担当部にその旨を伝え公には彼らから問題提起などをしてもらうよう仕向けました。それが私のラインでない時は私のラインの部下を呼んで知恵をつけました。「“ちょっと気が付いたけど、あなたのラインの事だと思うのでそちらで考えてもらうといいと思うけどどうかな。参考までにこんな案もあるよ”と言ってきなさい。これは君が気付いたことで私は知らないことだよ」と。
 その結果、会議の場などで然るべき担当部から然るべき提案などが上がってきた場合、すっとぼけて「ああ、よく気が付いたね。それは大事なことだ」と。その代わり、二度三度とヒントを与えても一向に動きがないような場合には公の場での叱責もやむを得ませんでした。私は問題には大抵直接間接にそれとなく宿題を出して、いきなり困らせることは成るべくしないよう心掛けたつもりです。世の中には自分のラインの問題を第三者もいる場であげつらう人もいますが、私は賛成しかねます。本当に問題があれば、部下と一対一の差しで別途十二分に議論すべきです。

(5) はんこの角度
 長い間には必ずしも意に副わなくてもはんこを押さざるをえない場合があります。そんな時私はやむを得ず首をかしげて押しました。例えば真横とか、極端な場合は逆さまとか。ですから過去の私の押印を見ると賛成度がわかります。ただし、5度や10度は誤差範囲です。それから個人的経験から言えば“はんこ”には何となく人柄が現われます。縁の欠けたはんこを平気で使う人は、すべてとは言いませんがどこかバランスを欠いていたりします。それも個性と言えば個性で、また何か事情があるのかも知れませんし、いい悪いということではありませんが。なお、逆は必ずしも真ならず、です。

(6) ものには順序がある
 日本の組織は意思決定が遅いとよく言われます。しかし、現実は例えば交渉相手とは幾つかのレベルで問題を探り、煮詰めていくのが普通です。先方から声が掛かったからとやみくもに出ていくのは時として問題です。相手の係長が同格か一つ上の課長を想定していたのに、いきなり部長が行くとお互い困惑するかも知れません。逆もあります。剣道や柔道にたとえれば、下から順に戦います。そこでけりがつけばそれに超したことはありません。ですから、トップがいきなり交渉に出ていくというのはそれなりの意味がある、例えば尋常の手段ではらちがあかない、トップの腹一つだ、とか隠密を要するという場合でしょう。下で済む話しにしょっちゅう上が出ていくと下がやる気をなくする危険もあります。反面、普段あまり顔を出さない幹部がときたま顔を出すと、相手は「これは何か意味があるに相違ない」と思うのが普通でしょう。然るべき時には然るべき“格”の人が行かなければなりません。また、上位者ほど発言に重みがともなうのも当然です。要はメリハリです。ただし、これは交渉事のことで、日常何かと顔を出すというのは別の話です。外交での公式訪問と非公式訪問みたいなものです。
 このような話も二人称で考えればおよそ見当が付こうというものです。これが私の「格論」です。

 今回はあけすけに手の内までさらけ出しました。私にとって二人称の現役の方々の立場に立てば、この小論は控えるべきだったかも知れません。現役の方々がやりにくくなったり「ああ、そういうことで操られていたのか」と思う方々が居るかも知れませんが、ご容赦下さい。。