今から十数年前、真藤さんが当時の電電公社総裁に就任された折り「おまえ達の話しているのは電電語だ」とか「一人称で行動しろ」など多くの真藤語録が生まれました。それ以来旧電電公社、NTTでは猫も杓子も「一人称、一人称」と口にするようになり、現在に至っているように思えます。私は割に天の邪鬼なところがありますので、それ以来ことさら「二人称で考えよう」と言ってきております。そして「君たちの設計している装置機器は奥さんやおじいさん、おばあさんでも使えるかね」と言ってきました。私は「二人称で考える」ことが「一人称で行動する」ことの原点だと思っています。注意して頂きたいのは「考える」と「行動する」の使い分けです。「二人称で考える」ことなしに行動すると一人よがりになり兼ねません。今回と次回はこのテーマについて私の考えをいくつか述べてみます。
(1) ユーザの立場で考える
ATRでは「通信の最終ユーザは人である」という立場で、そのユーザである“人”がどのように外界を認識し、行動しているか、などの視点で研究を行っている、という思想をことある度に強調してきました。その発想の原点は次のような当たり前のことにあります。
電話交換の初期いわゆる手動式の交換台が使われていた頃、ユーザは交換手に「角のうどん屋」というだけで繋いでくれました。ところが、いわゆる“自動交換機”が導入されて以来ユーザは手でダイアルを廻さねばならなくなり、ユーザにとって“自動式”は“手動式”ということにあいなりました。このように“自動”という言葉はネットワークの運用側(キャリア側)の見方であって、ユーザの見方であるとは言えません(もっとも、ずっと昔は“自動”ではなく“自働”という字が当てられていました)。同じようなことは自動販売機、自動改札機などにも言えます。サービスの提供側とユーザの立場を考えると“自動”とか“手動”とかいう言葉は再検討が必要でしょう。ただし、私はいわゆる“自動化”が間違っていたと言いたいのではありません。しかし、“自動化”によって得たものも多い反面、「角のうどん屋」という人間味のあるやりとりのように失われたものもあります。情報社会に向けては、サービスの提供側からユーザ側に視点を移して考えてみることが大切です。余談ですが、最近そういうことに気がついて“売り場”を“お買い場”に変えたデパートがあるとも聞いています。ついでですが、私は関東で話しをする時は「うどん屋」を「そば屋」に変えています。
(2) 相手の立場で考える
私は信条を聞かれたとき「相手の立場で考える」と言っております。これは一見大変良心的なようですが、本当は辛辣な発想でもあるのです。人と話したり交渉をしたりする時、大抵の人はまず自分の考えを主張するでしょう。私も大抵そうです。ですが、時によっては同時に自分を相手の立場に置き換えることもやってみます。そうすると、どういうことを言い、どういう行動をするかということの想像がつきます。大袈裟に言えば「敵を知る」ということです。相手の発言が傍目には異様であったり、けしからんというようなことがあっても、自分が相手の立場ならやはりそう言い、行動するだろう、ということであれば、それは異様でも何でもありません。その想像と異なっていればその方がよほど大変な情報です。よく裁判で判決が出たとき敗れた方は「判決文を精査して、云々」と言います。庶民には「木で鼻をくくったようで往生際が悪い」と映ることもままありましょうし、私も大抵同感です。しかし、当事者の立場では多くの場合それ以上のことが言えるでしょうか。もし、庶民の期待のようにはじめから「悪うございました」と言えばこれは大変なことで、私なら「何かあったのかな」と思ってしまいます。そして、それならはじめから裁判など起こすべきでなかったことにもなります。
少し生々しいですが、身近な例を述べます。ATRでは外部からしばしば資料提出や説明を求められます。ときには「なぜこんなことまで」と思うことも有り得ます。しかし、相手の担当の立場に立てば上司に説明する時どんな質問があるやも知れず、準備万端整えるのは至極当然で、そのためにはしつこい程聞いておくのは当たり前です。さらに上司はまたその上司あるいは別の機関に説明する、ということを思えば出来るだけ適切な情報を提供するのはわれわれのためであり、われわれに代わっていろいろと外部に説明して頂いている、ありがたいことだ、という単純明解なことが理解できるわけです。
また、ちょっと具合の悪いことを何とかしなければならない、というようなことを想像すると、出来るだけ手短かに最小限の説明でさっと逃げ帰りたい、と思うのは人情でしょう。そういう態度や説明に遭遇すると「ああ、やっぱりね」という印象が残ります。逆効果です。私には、こうして知らず知らずの内に人の行動を品定めしている悪い癖があるようです。
(3) 特許の書き方
ATRでは特許出願の事務手続きは各研究開発会社の自由裁量です。ですから、アイディアだけ伝えて後は弁理士さん任せのところもあれば、担当者が私に説明に来るというところもありました。担当者は緊張気味だったかも知れませんが、これはお互いにいい機会ですから私は出来るだけよく話しを聞くようにした積もりです。ところが技術内容がよくても、特許そのものの書き方が上手でない、という場合がしばしばありました。それは一人称で書くからです。
具体例(仮想)を説明します。最近は大抵のことはディジタルで処理されます。音声もそうです。従って担当者はまずA/D変換器で音声をディジタル化するでしょう。そして“音声信号をディジタル化するA/D変換器と・・・・自分が実験でやった通りに請求範囲を書いてきます。そこで私が質問します「仮に君がライバル会社の担当で、この特許の逃げ道を必死に考えるという立場だったらどうだろう。君の請求範囲にはA/D変換器が構成要素に入っているけど、遠隔地から直接ディジタル信号で入ってきてあとは同じ装置で処理するとどういうことになるかな。A/D変換器は要らない訳だから君の特許は逃げられて仕舞うよ」と。「だから“ディジタル化された音声信号を・・・・”だけでいいんだよ。ついでに同じ原理で映像情報も処理できるなら、音声に限るのはまずいよ。音声にしか使えないかどうか検討してある?」というわけです。このように特許逃れ、特許つぶしという相手の立場で吟味すると不必要な制限事項が入っていたり、必要なものが抜けていたりすることに気がつきます。
私はよく「今日の午後はATRの社員を辞めて○○会社の社員になってご覧。そして必死でこの特許を逃げる方法を考えてご覧」と言ったものでした。そうすることで脇の締まったものになります。そしてより大切なことは、本当にオリジナルなことは何か、もっと一般化できないか、など自分の研究の本質がはっきり見えてくることです。エッセンスの抽出は本人がやるべきだと思っています。そしてそれは自信につながります。ですから、そういう自信がつくまでは私は本当は弁理士任せは反対です。ついでに言えば、こういうことが私のところでした議論されない場合があるのは不思議なことでした(次回参照)。
(4) 仮想変身の勧め
二人称で考えるということは、頭の中でいろんな人に変身し、その人の置かれている環境、条件を想像して仮想行動をしてみることです。お金をかけないでいろんな人、例えば大統領にでもなれるのですから面白いことです。世の中では良かれと思ってやったことが反って相手を傷つけることもあります。これなども行動の前に相手に変身してみれば未然に防げることが多いのではないでしょうか。
別の例を話します。ATRには外国人の研究者など来訪者が大勢見えます。私は(かな漢字の読めない)外国人になった積もりで英語(ローマ字)表記だけを頼りに関西国際空港から公共交通機関でATRまで来るシミュレーションをやってみました。難物の一つは近鉄西大寺駅での乗り換えです。大阪難波行きと京都行きが同じホームから発着します。折角難波から西大寺に来ても京都行きに乗らないで難波に逆戻りするようなことはないだろうか、果たしてATRにたどり着けるだろうかと。そういうことを近鉄の方にお話ししたことがあります。私のシミュレーション結果のことはここでは割愛します。
(5) うまく使おう二人称
さて、このATRジャーナルもお客様つまりユーザは読者です。記事というプロダクトを読者というユーザにいかにいい品質でかつタイムリーに提供するかという点では世の中の商品と何ら変わりません。
実は、ATRでは品質向上のため手近で実行可能な方策として、既に二人称を活用しているのです。私は学会誌の記事などでも、対象が大学院生レベルだとすると、二人称の立場にある大学院生とか同等の新入社員などに実際に原稿を読んで貰って具体的に意見を聞き、推敲するということをやってきました。どの雑誌でも大抵査読が行われますが、往々にして同じ分野の専門家が見ます。その結果、非専門家への初歩的な説明不足などがとかく見落とされ勝ちです。ATRジャーナルの場合は専門的なチェックと合せて非専門家、具体的には事務系の社員などに読んで貰う仕組みにしてあります。そして、わからないことは遠慮なく指摘して貰うことで進めてきました。ですから、これらのたとえば経理部の若手社員は、その時だけはATR社員ではなくて読者のひとりに変身して貰っているのです。そしてユーザとしての厳しい意見を出すのが務めなのです。遠慮は悪です。私はそれがいつまでも機能するよう願っています。