考えることと喋ること



1.音声言語の位置づけ

 人間は「音声言語」「文字言語」という大きく分けて2種類のコミュニケーション手段を持ち、それらは、相補助的な役割を果たしています。その中で「音声言語」は、身近にいる他者との間で、特に筆記具等の道具を必要とせずに情報伝達を行なえる簡便な手段であるばかりか、獲得時期が文字言語よりも早く、言語の概念を形成するためにも重要な役割を果たしています。さらに音声言語は、「音声生成系」(考えを「喋る」という行為により音声波として生成する)と、「音声理解系」(その音声波を「聞く」という行為を通して理解する)の2つの系を持ち、それぞれが音声波という媒体によって有機的に結合することにより、初めて成立するのです。ここでは、このような音声言語を構成する2つの系のうち、「音声生成系」に焦点を当て、何が問題とされ、それを解明するためにどのような研究が進められているかを紹介しましょう。

2.音声生成の成立過程

 音声が表出されるまでには、どのような過程を経るのでしょう。おおよそ、図1に示すような4つの段階に分けられます。以下各段階での処理内容を解説します。
[第1段階]:仮に話者の「考え」は「愛の告白」としましょう。その目的の為に話者は脳内辞書から「わたし」「あなた」「好き」という「単語」を引きだします。さらに、これを適切な語順に並べ、日本語に必要な助詞と助動詞を付け加えるという作業が行なわれます。これにより「わたしはあなたが好きです」という「文」が成立します。
[第2段階]:この文を発話するためにはもう一度「単語」のレベルに立ち戻り、発話の実行に必要な情報を得るためにさらに細かい構造に分解していく必要があります。例えば、文頭の単語「わたし」はまず3つの「拍」のレベルに分解されます。「拍」という概念は、基本的には仮名1文字の持つ音の長さに相当する単位です(俳句や短歌の「字数」と言われるものは実際はこの「拍数」です)。そしてさらにこの「拍」は「音素」に分解されます。「音素」は発話に用いられる「語音」の最小単位であり、「子音」や「母音」に相当するものです。
[第3段階]:次に、各「音素」を発音するために、舌・唇等の発話器官の運動(調音運動)を司る筋肉の収縮の程度やタイミング(運動指令)が計算されます。
[第4段階]:最後に各調音器官への運動指令が実行されます。その際、調音運動に伴う感覚や、生成された音声の聴覚的なフィードバック情報も、適切な調音の達成のために利用されます。

3.運動指令生成メカニズムの研究
 さて、このような各段階で、具体的にどのような処理がいかなるメカニズムで行なわれているのかを解明するために、さまざまな問題が提起され研究されています。例えば、「第1段階の処理に必要な脳内辞書にはどのぐらいの単語が格納されているのか?[1]」、また、「第4段階の処理に関連して、音声波の聴覚へのフィードバックが音声生成を正常に遂行するためにどのような役割を果たしているのか?[2]」等です。これらの問題に加えて、音声生成の研究のなかの最重要課題の一つは、第2・3段階の処理に関連した、「発話のために単語がどのように分解され、運動指令の連鎖を構築していくのか?」という問題です。私自身は、この点に興味を持って研究しています。
 例えば、「カ」「カタ」「カタカ」「カタカタ」というような単純な音節系列からなるいろいろな拍数の「単語」を発話することを考えましょう。20人程の被験者にこれらの単語を発話してもらいました。ただし、あらかじめ単語は提示しておき、その後で発話開始の合図が表示されたらできるだけ早く、正確に発話するよう指示しました(図2)。あらかじめ単語を提示し、合図が出てから語頭の「か」が発話されるまでの時間(発話潜時)を測定することにより、「読み」の処理にかかる時間を除外し、発話のために必要な運動指令生成に関わる処理時間の変動だけが測定できます。図3は、発話潜時の平均値を単語の拍数毎に示したものです。発話潜時は発話する語の拍数の増加に伴って増加しています。これは、発話に必要な運動が多くなったり複雑になったりするほど、運動指令生成に時間がかかるためと考えられます[3]
 現在、運動指令生成にかかる時間の増加をもたらす要素は何かを検討しています。このような研究から得られるデータは、運動指令の生成メカニズムの解明に必要な基礎資料となります。

4.音声生成研究における脳研究の必要性
 音声は、脳のさまざまな部位における複雑な処理の結果として生成されます。その「部位」と「処理内容」の関係を調べる研究手法は、「言語病理学」として確立されました。それは、脳内出血や脳血栓等を原因として脳に損傷を受けた患者の損傷部位をMRE等で確認し、患者の言語活動にみられる異常との対応を考察するものです。今後、脳磁界測定を始めとする脳内活性部位をモニターする手法を用いることにより、これまで言語病理学の中で蓄積された知見が健常者でも確認されていくでしょう。その過程で、音声生成系の各段階の処理がどこでどのように行なわれているのかが明らかになると期待されます。したがって、今後音声生成のメカニズムを明らかにするために、脳研究が重要な役割を果たしていくことは間違いないと思われます。


参考文献


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