夢  現


(株)ATR人間情報通信研究所 代表取締役社長 東倉 洋一



 そこは、ブロードウェイの劇場だろうか。前に見たことのあるミュージカルのようだ、と思った瞬間に詞が飛び込んできた。「お金は種のようなものだから、地面に蒔いて、どんな芽が出てくるか見てみよう」と。「ハロー・ドーリーだったかな?」と朧げな記憶を辿っていると、「基礎研究万歳!」という聴衆の歓呼に包まれる。いつの間にか聴衆の先頭に立っている自分。ここで目が覚めればよいのだが、夢は続く。突然、辺りに響く「逮捕する」の声に、劇場は大混乱。どうも、世の体制は基礎研究迫害、このミュージカルは御禁制のものだったのだ。逃げながら何度となく「基礎研究の重要性」を叫ぶが、声にならない。苦しみ逃げ惑いながら目を覚ます。
 幸いなことに、今の我が国の現状は、この夢とはかなり違う。科学技術基本計画が策定され、5年で総額約17兆円という投資目標が伝えられ、脳科学の時代を始めとする新しい世紀に向けた基礎研究の幕開けを迎えている。科学技術創造立国の名のもとに、国としてやらねばならぬことをやるという決断は、素直に歓迎したい。
 希望は大きく脹らむ。来るべきこの日に備えて、国としての基礎研究運営のノウハウの蓄積に最大限の努力を惜しまなかったのだ。先見の明ありとは、ATRの設立である。世界に類を見ないユニークな形態での、10年に亘る基礎研究の壮大な実験の成果が試されるときを迎えたのである。既存の研究所の長所はそのまま取り入れ、不都合な部分を改良し、足りないところを新しく付け加えることを意図して出発したのがATRであった。そこでの新しい試みの成功と失敗から学ぶべきところは極めて大きい。「一企業で行うにはリスクの高い研究を行う株式会社(企業)」という世にも不可思議な形態が、その研究費の70%を国の財源に求めながら、種々の規制を最小限に押さえることになった。これが、研究とその運営の自主性と機動性という最も重要な要求条件を保証したのである。
 大きな期待と共に、不安な面も多いというのが、正直なところであろう。従来の手法を踏襲してうまく行くことが期待できない多くの課題が待ち受けている。そもそも、従来、人を育てることをあまり考えなかった我が国の科学技術社会では、優秀な人材が、急に、かつ大量に見つかるはずがない。研究の設備は金さえあれば買える。しかし、人の場合はそうは行かない。この際、過去からの「付け」の順送りは、絶対に止めたい。まずは「人材の育成」を重視すべきだ。設備は、すぐに古くなる。しかし、人は生き続けて夢を繋ぐ。
 ATRの10年は、新しい世紀に向けた基礎研究の可能性を示している。これから生まれる基礎研究は、今のATRを出発点としたい。ATR10年間の価値ある投資としての実験結果は、決してATRだけのものではない。これをできる限り広く有効に活かすことが、我が国の財産であるATRの存在意義であり、また、大きな意味での、ATRの社会貢献であると信じる。