移動体衛星通信用アクティブアレーアンテナの研究




ATR光電波通信研究所 無線通信第一研究室 中條  渉



1.はじめに
 通信は人と人の心をつなぐ架け橋です。いつでも、どこでも、だれとでも通信可能な移動通信システムの実現は、ATR光電波通信研究所の大きな研究課題です。移動通信の急速な需要増大に対処するため、船舶や航空機に代表される衛星を介した移動通信や自動車電話に代表される陸上移動通信をはじめとして、様々な形態の移動通信システムが構築されつつあります。
 移動通信はいつでも、どこでも、だれとでもといった性質上、本質的に自由空間を介して行なう必要があります。アンテナは自由空間を伝搬する電磁波を電気回路に導いたり、または逆に電気回路に閉じこめられた信号を電磁波として自由空間に放射する重要な役目を持っています。自由空間では光ファイバや導波管のように電磁波を閉じこめて特定の方向に導くことはできません。アンテナはこのような自由空間で電磁波を特定の方向に導いたり、逆に所望の方向の電磁波のみを受信する役割を持っています。
 さらに、移動通信では移動体の動きに応じて電磁波の導く方向を時間的に変える必要があります。例えば、衛星を介した移動通信では、移動体の位置や形状にかかわらず常に衛星を高速で捕捉追尾する必要があります。これを実現するためにはパラボラアンテナのような大きな一つのアンテナを機械的に動かす方法もありますが、小さな多数のアンテナで構成されるアレーアンテナを用いて、各アンテナの励振係数を電子的に制御し所望の方向にビームを向けるフェーズドアレーアンテナが有効となります。フェーズドアレーアンテナについては、本シリーズの第5号を参照して下さい[1]。また、陸上移動通信の分野においてはビル等の周囲の構造物による電波の反射や散乱により、多数の信号の重ね合わせによる干渉波が生じます。干渉を除去するためには、やはり複数のアンテナ素子で構成されるアレーアンテナを用いて、時間的、空間的にアンテナの指向性を制御する機能を有するアダプティブアレーアンテナが必要となります。
 図1にATRで取り組んでいる移動通信用アクティブアレーアンテナの構成を示します。アクティブアレーアンテナはアンテナ素子を複数配置するのみならず、さらに増幅や周波数変換等の能動的な機能を有するアクティブ素子をアンテナ素子ごとに配置したアレーアンテナです。アンテナ素子ごとにアクティブ素子を配置することにより、両者の距離を出来るだけ近付けることが可能となります。これによりアクティブ素子で送信や受信の回路損失を補償することができます。従って、回路の部分にディジタル技術や光技術を積極的に導入することが可能となり、将来は回路の小形化、軽量化、更には高機能化が可能となります。アクティブアレーアンテナは従来、レーダの分野において主として研究がなされてきました。ATRではアクティブアレーアンテナを移動通信に適用する場合の問題点の解決に取り組んでいます。通信では送信と受信を同時に行なう必要性があります。従って、送信信号が受信回路に回り込むのを抑える必要があります。このためアンテナ素子とアクティブ素子である増幅器の間にフィルタが必要となります。
 一方、ビーム形成回路は送信、受信の各アンテナ素子に対応する信号の励振係数を調整します。これにより所望の方向にビームを向けたり、利用する形態に応じてアンテナの指向性を変えることができます。ビーム形成回路は多数のアンテナ素子の信号を取り扱うため、小形、軽量化が重要となります。このため、ディジタル技術や光技術の導入が期待されます。さらにビーム形成回路では高速かつ適応的にアレーアンテナの指向性を変えるために複雑な信号処理技術が必要となります。このため、ファジィ推論やニューラルネットワークなど、人間のもつ高度な情報処理機能を応用したビーム形成アルゴリズムが必要となります。さらに通信では電磁波に情報をのせたり、また逆に電磁波から情報を取り出す操作として変調、復調が必要となります。変調、復調はディジタル技術を用いることが多いのでビーム形成回路と変調回路、復調回路の構成方法が研究課題となります。このようにアクティブアレーアンテナは従来のアンテナ技術の領域を越えた総合技術(アンテナ素子、回路、信号処理、半導体、ディジタル、光そしてシステム技術)として成り立っています[2]。ここではその中で、将来の衛星通信用の移動体アンテナ、主として航空機や自動車等を対象とした移動体アンテナの実現に必要な技術に関する研究を紹介します。

2.セルフダイプレクシングアンテナ
 アクティブアレーアンテナの出入口としてまずアンテナ素子が重要となります。アンテナ素子は送信では電気回路からの信号を電磁波として放射し、受信では電磁波を電気回路に導く役割を果たします。移動体衛星通信では、特に移動体と衛星の距離が離れているため送信側は大きな電力を、受信側は小さな電力を取り扱います。このため、移動体自身の送信アンテナから受信アンテナをとおして回り込む電力を抑えるために、非常に大きな送受間分離量が必要となります。通常、フィルタがこの役割を果たします。しかし、フィルタ自身を低損失に保ったまま大きな送受間分離量を確保するために多段のフィルタが必要となり、その小形化が難しくなります。特にアクティブアレーアンテナでは図1に示すように各アンテナ素子毎にフィルタが必要となり、小形化は不可欠となります。このためアンテナ素子自身にフィルタの機能を持たせることが考えられます。アンテナ素子自身が送受分離機能を持つアンテナをセルフダイプレクシングアンテナと呼びます。特に送信と受信のアンテナ素子を分離し重ねた2層構造セルフダイプレクシングアンテナは小形化の点からも有効です。
 セルフダイプレクシングアンテナの送受分離量は2つの要素から成り立っています。1つは送受のアンテナの周波数および距離が離れていることによる送受分離、もう一つは円偏波の性質を利用した送受分離です。後者は次のように説明できます。電磁波は一般に電界が特定の方向を向いています。この性質を偏波という言葉で表わします。電磁波の進行方向に沿って時間的、空間的に偏波が回転するものを円偏波と呼び、右まわりの円偏波と左まわりの円偏波が存在します。両者は互いに干渉を与えません。移動体衛星通信では送信アンテナと受信アンテナは同じ円偏波を用います。従って図2に示すような2層構造の送受分離アンテナでは、送信アンテナから受信アンテナ方向へ回り込む電力は逆の円偏波となるため、送受分離が確保できることになります。ATRでは上層に送信用としての円形パッチアンテナ、下層に受信用としての円環パッチアンテナ[3]を重ねた2層構造セルフダイプレクシングアンテナの試作を行いました[4]。円環パッチアンテナは中央に穴が開いているため、上層の円形パッチアンテナに容易に給電することができます。このアンテナを用いて送受分離特性の測定を行いました。取り扱う周波数は移動体衛星通信用として受信周波数1.54GHz、送信周波数1.64GHzです。その結果、送受の広い帯域にわたり35dB以上の送受分離量を得ることができました。このようにアンテナ自身に送受分離機能を持たせることによりフィルタの小形化が可能となります。

3.コンフォーマルアレーアンテナ
 アレーアンテナは複数のアンテナ素子から構成されます。通常、アレーアンテナとしては平板上にアンテナ素子を並べた平面アレーアンテナがよく用いられます。一般に平面アレーアンテナは薄形であり、またアクティブ素子を含めて多層化が行いやすいという利点がありますが、ビームを広角まで走査しようとするとアンテナの利得低下が問題となります。これに対してコンフォーマルアレーアンテナと呼ばれるアレーアンテナがあります。コンフォーマルアレーアンテナはもともと、自動車や航空機等の曲面体の形どうりにアンテナ素子を配置したアレーアンテナを指していましたが、現在では球面アレーアンテナなど、曲面上にアンテナ素子を配置したアレーアンテナを総称してコンフォーマルアレーアンテナと呼びます。球面アレーアンテナなどのコンフォーマルアレーアンテナは、広角での利得低下が少なく広角ビーム走査に適したアンテナです。衛星通信では、移動体アンテナの電気的特性として広角にわたってビームを走査する必要があります。また、流体力学やデザイン性の観点からも出来るだけ移動体の形状に適合したコンフォーマルアレーアンテナが望まれます。
 しかし、コンフォーマルアレーアンテナではビーム形成のために各アンテナ素子ごとに複雑な励振振幅・位相制御を行なわなくてはいけないと同時に曲面構体の一体成形、多層化等、製作上の問題があります。ATRでは移動通信に適したコンフォーマルアレーアンテナの放射特性の検討を行なうとともに、製作上の問題を解決するためにコンフォーマルアレーアンテナの試作を行い、その電気的特性の評価を行なっています。
 図3に試作した16素子コンフォーマルアレーアンテナの外観を示します[5]。このコンフォーマルアレーアンテナの構成法を簡単に説明します。まず球に内接する正20面体を考え、その構成要素である正三角形をさらに小さな正三角形に分割します(一辺の分割数をNとします)。各正三角形の頂点を球面上に投影した位置にアンテナ素子を配列し、16素子アレーアンテナとします。このようにアレーアンテナを構成すると分割数Nが増すほど曲率の小さなコンフォーマルアレーアンテナとなります。コンフォーマルアレーアンテナの曲率を調整することにより、移動通信に適した最適な形状を明らかにしました[6]

4.ディジタルビームフォーミング
 アクティブアレーアンテナの各アンテナ素子の励振係数を変えて、フェーズドアレーアンテナとしてビームを走査したり、アダプティブアレーアンテナとして指向性を適応的に制御する役割をビーム形成回路が行います。コンフォーマルアレーアンテナでは、各アンテナ素子がばらばらな方向を向いているため、特にビーム形成が難しくなります。また、先に述べた陸上移動通信の複雑な電波環境に対処するためには高精度に各アンテナ素子の励振係数を制御する必要があります。このような複雑な励振振幅・位相制御をしかも精度良く行なうためには、アンテナ素子ごとの信号をA−D変換し、ディジタル的に信号処理を行なういわゆるディジタルビームフォーミング(以下DBF)技術が有効となります[7]。この技術はディジタル信号処理用プロセッサ(以下DSP)の演算速度および機能の向上によりアレーアンテナへの適用が可能となってきたものです。DBF技術はディジタル信号処理の特長である高精度、柔軟性といった機能をいかし、アクティブ素子を含めたアンテナパターンの較正や低サイドロープアンテナ、アダプティブアレーアンテナのパターン形成にも有効となります[8]
 これらのDBF技術の利点はレーダ分野に限らず、そのまま移動通信用のアレーアンテナにも適用可能です。以下に通信特有の問題を示します。まず、受信側のDBFアンテナを考えた場合、各アンテナ素子の受信信号を合成し、信号のSNを十分あげた状態で復調に必要な基準搬送波およびクロックを再生し供給する必要があります。このとき、ビーム形成回路での信号処理による時間遅延により、基準搬送波を再生するためのフィードバックループの応答特性が劣化することを避ける必要があります。そのため検波は固定の基準信号からの搬送波で行い(準同期検波)、ビーム形成後の信号に対して復調のための位相補正(搬送波位相補正)を行なう方式が有効です[9]
 これに対して送信側のDBFアンテナでは搬送波再生やクロック再生が必要ないため、ビーム形成回路と変調回路を一体化することが可能となります。代表的なディジタル変調方式であるPSK波を変調波とする場合の送信用DBFアンテナについて、ビーム形成回路と変調回路の基本構成を図4に示します。図中、移相器挿入可能位置・〜・はビーム形成のために各アンテナ素子の励振位相を制御する移相器を挿入する箇所の候補を示しています。このとき・ではデータ速度に比例した演算を行なえば十分であるのに対し、・、・ではD/A変換器のサンプリング速度に比例した演算量が必要となります。従って・に移相器を挿入するビーム形成方式が信号処理効率の点から有効であることが分かります。この方式に基づき、複数のDSPを用いて16チャンネル制御可能な送信用DBFのビーム形成回路と変調回路を試作しました[10]

5.むすび
 移動体衛星通信用アクティブアレーアンテナを実現するために必要な要素技術としてセルフダイプレクシングアンテナ、コンフォーマルアレーアンテナ、ディジタルビームフォーミングの研究成果を紹介しました。残された要素技術としてはアンテナ素子とアクティブ素子の構成方法を解決する必要があります。今後はこれら開発された要素技術を統合した衛星通信用アクティブアレーアンテナの開発評価を行なっていく予定です。さらには光制御技術やインテリジェントな信号処理技術との融合をはかり、高周波数化、高機能化をはかったアクティブアレーアンテナの開発を目指します。



参考文献