光カオスを利用した新機能素子の研究



ATR光電波通信研究所 ピーター デービス



1.はじめに
 通信の信号処理や情報処理において、より大容量より知的、かつより人間自身の処理にうまくインタフェースできるものが要求され、「複雑さ」を「簡単」に扱うための新しい概念や原理を取り入れた処理が必要となっている。その一つは、生物の神経系の幾つかの性質を利用した並列分散処理を目指すニューロコンピュータである。もう一つの重要な新しい方向は、「カオス」というダイナミカルな現象を利用することである。他方、複雑さの発生機構を捕らえようとする物理学では、「カオス」というパラダイム(*1)がめざましく発展している。通信デバイス研究室では、光カオスを利用した新機能素子に注目し、計算物理の新しい光情報処理原理、および新しい光素子の実験、という二つの観点から基礎研究を進めている。

2.「カオス」とは
 「カオス」は「混沌」と訳されているが、物理学では自然の中の混沌を理解するため、「カオス」を二つの意味で使っている。一つは古くから知られているthermal chaos、もう一つは新しいパラダイムになっているdeterministic chaosである。前者は、系のたくさんの構成部分(自由度)がバラバラ(独立に)動いていることにより、全体の動きが「混沌」に見える現象を意味する。後者は、構成部分がお互いに強く影響し合うような「非線形性」を持つため、少数でしかも簡単な決定論的なルールに従っているにもかかわらず、全体の動きが「混沌」に見えるような現象を意味する。近年「カオス」はもっぱらこの意味に使われている。このカオスにはなんらか「秩序」があり、波の動きから土星の輪に至るまで、様々な「混沌」現象を理解するのに役立っている。最近、生物の神経系などにおけるカオスらしい現象の観測も話題になっている。その機能的な意味はまだ明らかではないが、カオスの構造をなんらかの方法でうまく利用しているのではないかと思われる。このような抽象的説明では、仲々ぴんとこないかと思われるが、後の実例でよく理解して頂けると思う。

3.光カオス
 光素子にもカオスはよく現れる。レーザの非線形モード競合による複雑な発振現象は、レーザの発明の初期から知られている。しかし、満足の行く一般理論はなく、最近カオスとして再び注目されている。
 1979年、光素子として注目されていた光共振器(図1)に、光カオスの存在が予測された。共振器の中の往復(一周)時間Trが非線形帰還の応答時間Tmより長い場合、レーザ強度を上げると共振器出力光強度は図2のように複雑に振る舞う。そのダイナミカルな性質は流体の乱流に共通なところが多く、光乱流とも呼ばれている。その性質の二つは、励起パラメータに対応するレーザ光強度を上げて系の状態がカオスに近づくと、モード発生のカスケードが起きることである(図3参照)。一つの振動モードが不安定になり、複数の新しい振動モードを生み出す「分岐」が繰り返して起き、多数に枝分かれした複雑な分岐構造を作って行く。最初に生じるカオスは、これらの枝が詰まったことによる枝間のわたり歩きとして発生する。レーザ光強度をさらに上げると、カオスは次第に発達し徐々に激しくなっていく。

4.単純な構成から複雑な機能
 カオスは上のような豊かな構造を持った複雑な振る舞いであるのにも拘わらず、簡単な発生機構から生まれる。この現象を利用すると複雑な機能を単純な素子で実現することができる。この背景には、生物のカオス、情報処理における乱雑さ(乱数)の利用、von Neumannにさかのぼるセルラオートマータ機械の自己組織化の研究がある。しかし、カオスにはカオス自身の構造をうまく利用するための制御原理がないという大きな難点がある。これはカオスに構造の豊かさがある反面、不安定性とコード化の複雑さがあるためである。
 我々は上のような分岐構造、特にカオス発生の境目付近(edge of chaos)に面白い可能性があると考え、光共振器の制御問題を取り上げた。カオスの一歩手前「プリカオス」には多数の安定モードがあり、これに注目する。励起パラメータ(レーザ光強度)を上げると、カオスを通じて、モード間に自発的遷移が起きる。プリカオスとカオスに対して、“種信号方式”と“サーチ方式”と呼ばれる二つの相捕的な制御法が考えられ、これらの制御系の構成を図4に示す。我々は種信号を使ってプリカオスを大容量のダイナミカル記憶に利用する研究、およびサーチを使ってカオス自身をモードの適応検索と合成に利用するという研究を行ってきた。

5.プリカオスとダイナミカルメモリ
 我々は、光共振器に生じるプリカオスの多数の振動モードを系統的にコード化し、このコードによって選択的にスイッチできる事を示した。それには、コードに対応した「種」信号を入力すればよい(図5)。この制御原理によって、プリカオスをメモリや他の情報処理機能に利用できる。従来は1ビット処理にしか利用されなかった素子が、有効遅延Tr/Tmを長くするだけで、原理的に無限ビットも扱えることを示した。半導体レーザ、電気光学効果光変調器、および光ファイバ遅延線で構成された図1bの装置の実験では、今のところ、21ビットまで扱えることを示した。扱えるビット数を増やすためには光遅延時間を長くしなければならないが、必要とされる信号処理速度が電気的処理の能力を超えつつある光通信と光コンピュータの分野において、このように大容量で多機能、しかも構造的にシンプルな素子が重要となるだろう。

6.カオスとサーチ
 励起パラメータμ(レーザ光強度)を増加させると、カオスによりモード間の遷移が現れ、種信号に対応した振動モード(メモリ内容)が破壊されるが、すこし見方を変えてみると実はこの不安定性には応用性がある。カオスは多数の振動モードおよびそれらの中間状態をサンプリングするので、出力を適当な方法で評価できれば(図4参照)、カオスを振動モードのサーチに利用できる。これを証明するため、光共振器の動作の計算機シミュレーションを行った。光出力が入力で指定したコードか特徴Rを持てば励起パラメータμは下がるという適応ルールを用いて、入力と一致性のよいプリカオスの振動モードにサーチが収束することを示した。
 この適応サーチ方式は、サーチの候補が非常に多い場合に、拘束条件を満足する出力を見つける従来の統計的な緩和処理方法と共通するところもある。サンプリングやサーチにおいて、外部から注入される乱雑さの代わりに系の内部で発生されるカオス特有のダイナミカルな性質や分岐構造を用いると、簡単な素子と制御機構によって、より適応性の高い緩和処理が期待できる。
 図4の制御方式は多数の光共振器がお互い結合したアレイにも利用できる。図6は光共振器素子が64個結合したアレイの発光パターンの時間変化を示す。64個は縦一列に並び、時間間隔Tr毎にそれぞれの素子の出力がある閾値を超えているかどうかを黒点のありなしで示されている。励起パラメータμ(レーザ光強度)がゆっくりと増減すると、アレイの発光パターンがプリカオスとカオスの間をゆっくり往復する。カオス「波」がないと、プリカオスのパターンのどれか一つに行き着くだけであるが、カオスが来るとプリカオスのパターンの周囲に集中したサーチが行なわれる。

7.カオスと学習
 カオス発生の境目付近(edge of chaos)におけるカオス「波」は多次元空間パターン「発見」だけでなく、学習過程における系「発展」にも役立つ。
 図6の場合において、プリカオスのどのパターンが安定かは、素子間の結合の強さ(結合係数)に依存する。ニューロネットワークで使われるような簡単な自己相関型学習ルールに従って素子結合を変化させると、カオスで現れる新しいパターンがプリカオスで安定しうるパターンの一つになるといった内容の学習をさせることができる。パターンの外部評価を学習ルールに取り入れると、評価の高いパターンだけが学習され、カオス「波」が続くかぎり、系が「発見」を重ねて徐々に評価の高いパターンを学習して行く。
 多次元情報処理では、このような光共振器アレイ、あるいはこの発展型である実時間ホログラフィック共振器、これらにおける空間的および時間的光カオスを用いた光イメージの自己組織化は、今後の重要な課題となるであろう。上記のサーチや学習の他に、拘束条件の下で記憶空間のダイナミカルなサンプリングを行なっているカオスを、ファジーあるいは柔らかい記憶状態として使用するといった機能も興味深い。

8.おわりに
 光カオスを利用して単純な素子から複雑な機能を引き出す可能性を示した。非線形素子が持つ豊かなダイナミックスの構造は、簡単な制御原理により利用できる。その機能を適用して多数ビットのダイナミカルメモリ、適応サーチ、学習といった大容量で知的な処理を実現した。こうした「機能的カオス」の実例は、新しい情報処理方式を確立するための重要な踏み台になると思われる。



参考文献