半導体人工超格子
ATR光電波通信研究所 通信デバイス研究室 鎌田 憲彦
1.まえがき
通信システムを支える半導体光素子技術の発展には目ざましいものがあります。現在全国に光ファイバーの基幹通信回線網が敷設され、その中を毎秒109個の光信号が情報を運んでいます。光を用いることによって、長い距離を電気信号よりはるかに低損失で伝送することができるのです。地域内、ビル内などのより小規模な光通信システムも増加しています。これら光通信システムの光源や検出器などのキーデバイスとして、半導体光素子は今や無くてはならないものとなっています。
しかしながら私達は、光の持つ本質的な可能性(超高速性、並列性、光結線の非干渉性など)を生かし切っているとはまだまだ言えません。光素子は現状よりもはるかに高速になる可能性を持っています。また元来私達人間が見ているように光信号を「像」として並列処理することができるようになれば、情報処理通信に大きな飛躍がもたらされることは間違いありません。そのためにはある光入力の強さを境にして光の透過率が大きく変化するような非線形動作をする素子−非線形光素子−が必要です。
ATR光電波通信研究所ではこうした光の可能性をさらに生かすために、原子スケールでの成長制御による新材料の開発やカオスの制御・神経回路網の応用などの光情報処理アーキテクチャーの研究と合わせて、半導体人工超格子[1]を用いた光素子の研究を進めています。ここではその中から選択ドープ構造による発光の高速・高効率化と、量子井戸のサブバンド間遷移を利用した非線形光素子の可能性について紹介します。
2.半導体人工超格子とは
私達の身のまわりにはたくさんの物(物質)があり、これらの物質はそれぞれ固有の性質を持っています。たとえば金や銅は電気や熱を良く伝えますが光(可視光)は通しません。一方ガラスの性質はその反対です。こうした物質固有の性質は何で決まっているのでしょうか。ご存知の通り全ての物質は周期律表にある高々百種類余りの原子からできています。そして物質を構成する原子「種類」とそ「並び方」という二つの要素によって各々の物質の性質が決まっています。
逆に物質固有の性質を変えるには、その物質を構成する原子の種類か、または並べ方を変えれば良いことになります。もし原子を1個1個ピンセットでつまんで望みの位置に置くようなことができれば、たとえ原子の種類は限られていてもその並べ方を無数の組み合せの中から人間が自由に選べるようになります。それによって今まで自然界には存在しなかった優れた性質を持つ物質を人工的に創造することができるのです。
原子の並べ方の模式図で半導体人工超格子の説明をしましょう。図1の左側は2つの半導体A(たとえばGaAs)と半導体B(たとえばAlAs)の結晶構造を示しています。GaAsはGa(ガリウム)原子とAs(ひ素)原子が周期aで規則的に並んで結晶格子を作っており、同様にAlAsはAl(アルミニウム)原子とAs原子が周期bで結晶格子を作っています。これに対して図1の右側に示したように、半導体A、B双方の構成原子(Ga,
As, Al, As)を一定の順序で積み重ねて作った構造を半導体人工超格子と呼びます。このときエネルギーバンドは半導体A、半導体Bの禁制帯エネルギー幅Ea,
Ebを原子配列に対応してつなぎ合わせた形となります。半導体人工超格子Cは先のaやbより長い周期cを持つ新しい結晶であり、その性質Cは元の半導体の性質Aでも性質Bでも、また単にそれらの層厚に応じた和でもありません。ですから人工超格子Cは、人間が作った新しい半導体材料と言うことができます。
半導体人工超格子を作るには、原子の並べ方を高精度に制御できる結晶成長法が用いられます。私達の用いている分子線エピタキシー(Molecular Beam Epitaxy)法(図2)では、10-10Torr以下という宇宙空間並の超高真空容器の中でGa,
As, Alなどの原料を加熱し、種となる基板結晶(GaAs)に向けて分子線を当てることにより結晶成長を行います。原料ルツボと基板結晶との間にはシャッターがあり、その開閉によって基板結晶に到着する原子・分子の種類と量を制御します。
たとえばAsのシャッターを開けたままで初めにGaのシャッターを開、Alのシャッターを閉にすると、基板表面にはGa原子とAs分子が到着し、それらが規則的に並んで基板と同じGaAsの結晶格子を作ります。次にGaのシャッターを閉、Alのシャッターを開にすると、今度はAl原子とAs分子が成長表面に到着してAlAsの結晶格子が先のGaAs結晶格子の上に成長します。成長中の基板には横から電子線を当て、回折パターンを観測します。その回折強度の変化と同期してシャッターの開閉動作を行うことにより、1原子層の精度で望みのGaAs/AlAs人工超格子を作ったり、その中の特定の領域にSi(シリコン),
Be(ベリリウム)などの母体とは異なる原子(不純物原子)を添加したりすることができるのです。
3.選択ドープ構造による発光の高速・高効率化
半導体内の電気の運び手(キャリア)である電子とホール(正孔)が出会うと一定の割合で消滅(再結合)します。このときエネルギーを光の形で放出する場合(発光再結合)と熱の形で放出する場合(非発光再結合)があります。GaAsのような半導体は発光再結合の効率が高いので、半導体レーザや発光ダイオードの発光層に用いられています。
発光(自然放出発光)のスピードを高速化するために、SiやBeなどの不純物原子を添加してキャリア密度を増加させる方法があります。しかし発光層にある限度以上に不純物原子を添加すると、発光の高速化は進んでも強度(発光効率)自体が低下してしまいます。GaAs半導体に不純物としてSiを添加する場合は電子密度3×1018cm-3が限界です。これはSi添加によって発光層内に非発光再結合を引き起こすエネルギー準位(非発光再結合中心)が生成されるためと考えられます。より高速で高効率な発光を得るためには、非発光再結合中心をできるだけ避けながら発光層の電子を増やすという特別の工夫が必要になります。
半導体人工超格子の中で、発光層の両側を電子に対するエネルギーがより高い層(障壁層)ではさんだエネルギーの井戸(図3)を量子井戸と言います。量子井戸では電子とホールは離散的なエネルギー準位(Ec1,
Ec2, Ev1, Ev2などでサブバンドとも言う)しかとることができません。そして伝導帯の電子と価電子帯のホールが発光再結合することにより(図3(a)のEc1→Ev1)、光が生じます。さらにキャリアを発生させるための不純物原子を量子井戸の障壁層の中だけに添加し、発光層には添加しない構造を選択ドープ構造と呼びます。
GaAs発光層をAlGaAs(またはAlAs)障壁層ではさみ、Si不純物原子を障壁層の中だけに添加した選択ドープ構造では、障壁層内のSi不純物原子から生じた電子は障壁層の伝導帯Ecよりポテンシャルの低いサブバンドEc1に移動します。そのために発光層には高速発光に必要な電子が蓄積されます。一方でSi不純物原子は発光層内にはないので、Si不純物原子に伴う非発光再結合中心は障壁層内には存在しても直接発光層内に形成されることがありません。この場合選択ドープ構造は電子を動かして発光層に集め、障壁層内で動けない非発光再結合中心と空間的に分離することにより発光過程への悪影響を減らすという作用をしています。
実際に作製した選択ドープ構造の試料にパルスレーザ光を当てて発光応答を調べてみると、Si添加量の増加と共に応答時間が短くなり(高速化)、発光層にも一様にSi不純物原子を添加した試料に比べて出力も高いこと(高効率化)[2]が示されています(図4)。発光の高速時間分解・波長分解測定からキャリア再結合の不純物原子添加量、添加領域、障壁層厚などの構造依存性がわかってきました[3]。
Si原子濃度が1019cm-3以上の領域では、障壁層でのキャリアの不活性化、非発光再結合中心の障壁層から障壁層・発光層界面への拡散などの問題[4]があります。また高濃度に添加された不純物原子が結晶格子内に占める位置や結晶欠陥との複合体の形成など、結晶材料自体の問題が重要になってきます[5]。この領域で選択ドープ構造発光素子の特性を向上するためには、障壁層として別の人工超格子を用いるなどの構造最適化と共に、こうした結晶材料自体の問題を踏まえた新しい成長法の研究が必要と思われます。
4.並列非線形素子への応用
多次元情報の並列処理が可能な光論理演算・非線形処理素子の実現のためには、屈折率や吸収係数などの光学係数が強い非線形性を示す材料の探索が不可欠です。半導体の光学非線形性を強める工夫が色々と試みられていますが、半導体人工超格子のサブバンド間遷移過程の利用もそのひとつです。
量子井戸の伝導帯側の2つのサブバンドの間(図3(b)(Ec1→Ec2)で電子のエネルギー遷移(たとえば吸収遷移)を起こす過程をサブバンド間遷移過程と言います。サブバンド間遷移はこれまで調べられてきた伝導帯・価電子帯間の遷移(3で述べた発光再結合など)と違って同じ伝導帯内の遷移のために応答速度が速く(10-12秒以下)、強い光学非線形性が予想されるので応用上有望な過程です。私達はフーリエ変換赤外分光計を用いて量子井戸のサブバンド間吸収遷移を測定し、その構造依存性を調べています。また、さまざまな非線形動作を行なわせるために吸収量の外部光による制御を試みています[6]。伝導帯側の量子井戸という人工超格子の基本構造で発光・受光や非線形光処理の多くの回路要素を網羅できる可能性があり、今後の発展が期待されています。
5.むすび
半導体人工超格子と、それを用いた選択ドープ構造、サブバンド間遷移の研究を紹介しました。現在より百倍以上の速さで光信号を受け渡しする発光・受光素子、信号の判別、演算、記憶を並列に実行する光多値安定素子、論理演算・非線形処理素子などの可能性がより広い波長領域で芽生えてきており、これまでのシステムが苦手としていたより知的な機能(特徴点の抽出、画像認識・並列処理、連想記憶など)の光による実現が期待されています。
これらの新しい可能性の基盤には、原子層精度の結晶成長と評価技術、超格子のエネルギーや非線形ダイナミクス計算などの地道な発展があります。実際のシステムに使えるようにするためには、2次元、3次元の集積化といったプロセス技術、知的機能を加えた情報処理アルゴリズムの研究がさらに必要と思われます。ATR光電波通信研究所ではこれらのグループが互いに検討を重ねながら、次世代の通信システム用光素子の研究を進めています。
参考文献