コラム


ATRが発足した1986年は、その後の世界的なニューロブームのまさに前夜にあたる。視聴覚機構の研究では脳の神経回路(ニューラルネット)のモデルを計算機で検証することが重要になるが、スーパーコンピュータでも能力が不足するほど計算量が膨大なのが悩みの種であった。そこで、世界で唯一の、最大で6万5千個もの多数のプロセッサを連結した超並列計算機であるコネックションマシンの導入を計画した(購入は1万6千個版)。値段も大変高価なものであり、関係者の理解を得ることはもちろんのこと、米国側の輸出許可、日本における輸入や保守などの受け入れ体制、使用法のトレーニングなど幾つもの高いハードルがあった。研究者の情熱と、研究を大きく促進するためには絶対必要であるという視聴覚機構研究所の判断が一致して大決断をしたのである。これは結果的にも大成功であった。

元 認知機構研究室 室長 中根 一成
(現 日本電信電話(株)マルチメディア総合研究所主幹研究員)




ATR設立翌年の1月1日付けで第1期プロパー研究員として入社しました。右も左もわからぬ まま「目をつぶって飛び込んだ」という感じで、すべてが私にとって初めての経験でした。職場も老朽化した大学の建物から高層のインテリジェントビル(ツイン21)へ。研究室長の梅田さんから研究計画の線表を書けと言われて2重のショックを受けました。まず線表とはどんな表なのかがわからなかったこと。大学では1年以上のスケジュールでしか考えないのに何月に何がわかるか。そんなことわかったら解けたも同然と思ったものでした。予算も大学とは桁違いでした。私にとっては今まで書いたこともない高額の書類を恐る恐る出したところが、まだ1桁勘違いしたり。でもツインではよかった。NHKから出向の三宅さんを先頭に地下タクシー乗場から南へよく飲みに連れていってもらいました。いろいろな会社から出向されている人たちとおつきあいでき、ともかくいろいろなことを学ばせてもらった4年間でした。

元 認知機構研究室 主幹研究員 乾 敏郎
(現 京都大学大学院 文学研究科 教授)




このところ、「インターネット」はマスコミがエクサイトするトピックになりました。実は、このインターネットが「私のATRで働く幸運」を運んでくれたのです。私は10年以上前から電子メールの愛用者でした。大学内の電子ニュースグループで知ったATRに興味を持ち、研究室長の東倉さんと連絡を取ることが出来ました。電子メールで「日本では、私の体のサイズに合う自転車は買えますか」と質問したのをおぼえています。当時の私の身長は193センチでしたから(ATRに来た後も少し伸びた気がします)。答えは確か「No problem」でした。しかし、ATRに勤めて8年以上たった今、私の乗っているのはアメリカで買ってきた自転車です。笑ってください。

元 聴覚研究室 研修研究員 エリック マクダーモット
(現 人間情報通信研究所 滞在研究員)