接頭語考(その1)
−「インター」からの道のり−



(株)国際電気通信基礎技術研究所 研究開発本部 顧問 葉原 耕平



 昨年12月16日に行われたATR音声翻訳通信研究所の成果報告会で京都大学総長の長尾 真先生が大変含蓄のある講演をなさいました。その中で「これまで(20世紀まで)の科学技術はどちらかと言えば細分化された分野でのanalysis主導であったが、今後(21世紀以降)は分野をまたがったsynthesisがより重要になる」という主旨のご指摘があり、私は全く同感でした。実は私がATR発足以来、ATRでの研究の性格、あり方について意識、意図してきたことがまさにそうであったからでもあります。今回はその軌跡を辿り、少し敷衍してみます。またまた硬い話で恐縮ですが。

(1) 「インター」から「トランス」へ
 これはATRジャーナル10周年記念特集号でもすでに述べましたが(p.16)、要約すれば「インターディシプリナリー(Inter-disciplinary)」などに見られる接頭語「インター」は私の頭では異分野同士が境界面で単に接しているだけ、というイメージであるのに対し、これら異分野にお互いに足を踏み入れることが重要だ、という考えを表わす接頭語として「トランス」に思い当たった、というお話です。1990年ころのことでした。それがきっかけでATRではキャッチフレーズとして「インターディシプリナリー」に代えて「トランスディシプリナリー」を喧伝することとなりました。この発想のもとは10周年記念特集号にも掲載しましたが、M.C.エッシャーの白い鳥と黒い鳥が交互に行き交う絵「Day and Night」で、ある研究者がこれをあるワークショップ資料集の表紙に使うことを提案し、私がこれを見てとっさに「トランス」を思い浮かべたのでした。まさにお互い異なる経験、バックグラウンドの「トランスナレッジ」の産物でした。この出来事がなければ、「トランスディシプリナリー」に到達するのは多分ずっと遅れたものと思います。「トランスディシプリナリー」を地で行ったわけです。
 ATRで精力的に進めてきた音声認識技術と音声合成技術も決して独立したものではなく、お互いに裏腹の関係にあります。音声認識は音声認識だけ、合成は合成だけに閉じ込もっていたのでは限界があります。お互いに一歩踏み込んで両者の知識、知見を相互に反映することでよりよい仕組みになる可能性があります。まさに「トランス」が生き生きとする例でしょう。それをさらに広げて考える枠組についても前回お話しました。

(2) もう一つのキーワード:「クロス」
 これと似ていてややニュアンスの異なる接頭語で私達が好んで使うようになったのが「クロス」です。それは主に視聴覚機構研究所、人間情報通信研究所での研究に関連してはっきりしてきた概念で、その典型は「マガーク効果」といわれるものに代表されます。それは実際には「バ」と発声しながらそれに合わせて「ガ」と発声している口の形を映像で見せると「バ」でも「ガ」でもない中間の例えば「ダ」とか「ザ」に近い音として感じられる、という現象です。これは耳から入った情報と目から入った情報を脳の中では統合的に処理して認識していることの証左です。当時の企画部長(現NTTアドバンステクノロジ)松田晃一さんはご依頼を受けた講演でそれを紹介するのに「目で音を聞く」というタイトルをつけました。大ヒットだったと私は思います。他にも「耳でしゃべる」など、いかにも話を聞きたくなるタイトルをいくつか考案してくれました。
 われわれは人の感覚を視・聴・嗅・触・味などのいわゆる五感で考えます。しかし、上の「マガーク効果」の例のように実はお互いは無縁ではなく、大いに相互関連があるようなのです。そこで、われわれはそれぞれの感覚(modality)の相互(総合)作用として「クロス・モダリティ」という用語を作り、これまた大いに喧伝に努めてきたのです。

(3)「トランス」は過渡状態
 これまで「トランスディシプリナリー」という言葉で異種領域相互の交流あるいは踏み込みが大切だということを述べてきました。では「トランスディシプリナリー」が進めばそれで終わりでしょうか。実はその次があると私は思っています。その前にもう一度「インターディシプリナリー」に立ち戻って考えてみます。「インター」と言うからには複数の「ディシプリン」がその前提として存在し、そこで初めて「インター」が意味を持つことになります。 (1)ではそれをさらに一歩進めて「トランス」にしようというところまでお話ししました。その結果、例えば二つの分野が完全に融合したら、そしてそれが本当の狙いでもありますが、それ自身が一つあるいは複数の新しい分野(「ディシプリン(群)」)に生まれ変わるはずだ、と私は思っています。その新しい分野の中ではもう「トランス」というそれまでの概念は消滅します。例えば最近盛んな銀行の統合などでも、最初は多少はギクシャクすることがあっても、時が経てば一つにまとまり昔の名前などは消え失せるのと同じようなことです。
 さてこうして誕生した(するであろう)新しい分野(ディシプリン)には名前がありません。ですから必然的に適切な名前が欲しくなります。そこにはそれなりの知恵が必要です。10周年特集号で私は「ATRのキャッチフレーズは〔次々に新しい(キャッチフレーズ)を創出していくこと〕かも知れません」ということで、そのことを表現しておきました(p.22)。




(4)未来から現在を思考する
 ついでに同じような話で世の中で広く使われている言葉に「マルチ…」というのがあります。典型は「マルチメディア」です。これはもともとこれまでの概念での個々の「メディア」をいくつか糾合して行こうという発想のように思われます。その結果全くと言ってもいいほど新しい概念に到達するかも知れませんし、またそういう大きな期待のもてるものであって欲しいと思います。そこでこれらを統合(糾合)した概念が先にあったとすれば、それを個々に分解し解析した結果が今の言葉での個々の「メディア」ということになるのだ思います。統合の結果得られる未来のものを前提に現在なり過去に投影して見るとまた違った発想が出てくるかも知れません。人はすべての感覚器官を総動員してトータルに外界を認識し、外界に働きかけているらしいことは上にも述べました。それが一番自然で素直なのだと思います。それをこれまでは主要部ごとにやれ視覚だ聴覚だ、と分け、またそれらを前提にいくつかの「メディア」を対応させてきたとも言えそうです。またそれが便利であったのも事実です。しかし、あまりにもこれらの概念に捉われると上述の「クロス・モダリティ」のような本質が見失われる危険をはらみます。一度時計を逆廻しにして考えて見るのもたまには有効かも知れません。「マルチメディア」も将来だれかが「うーん、なるほど」とうなるような、接頭語「マルチ」を冠さない名キャッチフレーズを考え出すまではまだ途中段階のように私には思えます。

(5) 時間を逆廻しにしてみる
 適切かどうか分かりませんが最後に時計を逆廻にしする例を述べます。近年ペーパーレス社会が喧伝されてきましたが、その割には紙は増える一方です。ここで電子的ないわゆるペーパーレス社会しか存在しないという未来を想像してみます。そこではそこそこに便利ではありますが、例えば情報に辿り着くのにブラウザーとやらの電子的な助けが必要です。そこへ紙と印刷技術が発明されパラパラとめくるだけで視覚と直感で必要な情報に辿り着ける「本」(それもポケットに簡単に入る)が発明されたら「何と素晴らしい、便利なメディアか」ということになりはしないだろうか。新しいものすべてが過去のものより優れているはずだ、というのは思い込みと思い上がりかも知れません。私は時々このような例で本当に新しく抜本的なものかどうかチェックしてもらったものでした。