動きを視る



1.はじめに
 人間はいわゆる五感を使って外の様子を知ることができますが、その中でも視覚は多くの人にとって、最も重要な情報源となります。実際、マルチメディアやバーチャル・リアリティというときでも、画像は常に中心的な役割をはたしています。

 私たちは、人間の視覚機能のうち、特に運動知覚についての研究を行っています。人間は常に動き回って生活しており、周りにも動くものがたくさんあります。このような環境の中で生きていくには、静止した世界の認識だけでは不十分で、動きをリアルタイムに捉えていくことが必要です。ある脳損傷の患者はものの動きだけが見えなくなり、そのため、道路を渡るときに、さっき向こうにいた車がすぐ目の前にいて恐い思いをしたり、コーヒーをつぐときに、いつ止めていいかわからずこぼしてしまったりしたそうです[1] 。こういう症例は極めてめずらしいものですが、私たちがものの形とは別に動きそのものを知覚できるということ、そしてそれが生活のためにたいへん重要であることがよくわかります。

 動きの検出は工学的にも重要な問題となってきました。ご承知のように、動画のデジタル伝送においては圧縮技術が大変重要になりますが、効率のよい動画像圧縮には動きの検出が役に立ちます。極端にいうと、ものが形を変えずに移動するなら、次の時点では、移動方向と距離だけ伝送すればいいわけです。実際に、現在の標準の一つであるMPEG-2ではフレーム間の動き検出が行われており、動きの検出能力が圧縮の質や効率を左右するといえます。今後さらに高効率で高品位の圧縮技術を考える上では、人間の運動知覚特性を把握し、また、人間の処理様式を参考にすることがより重要になってくるとはいえないでしょうか。

2.運動残効
 一方向への動きを見続けると、その後で止まったものを見たときにそれが逆方向に動いているかのように見えます。これが運動残効と呼ばれる現象です。運動残効を経験するには、滝を見に行くとよいでしょう。流れ落ちる水をしばらく眺めた後で目を周りの景色に移すと、世界がゆっくりと上昇していくように見えることでしょう。実際、運動残効は「滝の錯視」と呼ばれることもあります。本物の滝を見に行くのはたいへんですが、より身近な例として、映画の最後に流れるスタッフロールもよい材料になります。文字を目で追って読まずに、背景に注目していてください。しばらく見た後で目を周囲に移してみましょう。世界が歪んだように動いて見えませんか? また、最近復権してきたレコードプレーヤをお持ちの方は、紙に放射状のパターンを描いて回転させると、とても強い効果を経験できます。
 運動残効は、動きの知覚について心理学的に研究する上で役に立ちます。残効が起こるのは順応によって動きを検出するメカニズムの反応が変化するためだと考えられるので、さまざまな条件下で残効がどれくらい生起するかを調べることにより、動き検出のメカニズムについて検討することができます[2]

3.視覚誘導自己運動感
 目から入ってくる動きの情報はたいへん強いもので、しばしば他の感覚からの情報に打ち勝ってしまいます。駅で、隣の電車が動いたときに、自分の電車が動き始めたように感じることがあるでしょう。そのように、視覚運動情報によって自分が動いたように感じることを視覚誘導自己運動感(ベクション)といいます。図1は、周りが動くと自分が動いたように感じて、まっすぐ立てなくなってしまうことを示すデモンストレーションです。箱を少し揺らすだけで多くの人はバランスを崩して足を踏み出してしまいます[3]
 私たちは、動く画像を見たときに体がどれくらい動揺するかを測定することにより、動きの知覚が身体制御にどのように影響するか、また、視覚運動情報のどの側面が強く作用するのかといったことを検討してきました。得られた結果は運動知覚のメカニズムを探る手がかりにもなります[4]

4.低次と高次の動き知覚
 運動知覚処理の基本原理は時空間的な相関の検出です(図2)。実際にはもう少し複雑な処理が必要ですが、そうした処理をまとめると、動きの検出は時空間次元における傾きを検出するフィルタ処理であると考えることができます[5] 。このような検出処理は脳内の比較的初期段階で自動的、並列的に行われるので、低次の運動検出といえます。
 一方、人間は一般に注意を用いて、世界をより能動的に見ています。図3において、4つの白い小円と4つの灰色の円が交互に現れる場合(実際には色は同じです)、物理的には全体がどちらへ回転するともいえません。しかし、中央を見たまま「注意」を用いて上の白い円を時計回りに追っていくと、全体が時計回りに回転するように見え始めます[6] 。このような運動知覚は自動的なフィルタ処理ではなく、より高次の検出処理に基づくといえます。
 しかし、動きが好きなように変わるのでは、信頼できる情報とはいえないのではないでしょうか? 私たちの研究では、注意が関与する高次の運動知覚過程は低次の自動的な過程とは独立しており、低次の信号そのものが変わってしまうわけではないことを明らかにしました。つまり、特定の動きに注目してよく見えるようにすることはあっても、動かないものを動かしたり、動くものを止めて見たりするわけではないのです。高次の運動知覚処理は、限られた処理資源を用いて、必要な情報をできるだけ効率よく取り入れようとする方略であるといえるかもしれません。

5.おわりに
 人間の視覚機構については、近年飛躍的に研究が進んできました。しかし、動きの知覚という一つの面をとってみても、いまだ謎に包まれた部分が多くあります。今後の研究では、そうした謎をさらに解明していくとともに、その知識が実際に生かされていくように考えていきたいと思います。


参考文献


Copyright(c)2002(株)国際電気通信基礎技術研究所