自然な音の秘密を探る



1.はじめに
 「そこは、東京都心部だろうか。ゴジラが火を吹き、建物をけ散らしながら暴れ回っている。その行く手には東京タワーが迫ってきた。『前に見たことのある映画のようだ。』と思った瞬間、ゴジラはタワーをすり抜け、東京湾に足を踏み入れる。すると、今度は海面が盛り上がり、大津波が発生した。停泊中のタンカーが小舟のように揺れている…。『あれ?でも、ちょっとおかしいな。あれほど大きなうねりなら、もっと激しい波しぶきが立ってもよさそうなのに。大きいくせに、いやにおとなしいうねりだ。まるで、海水が油のように粘っこい。何か不自然だな。』と思いながら夢から目を覚ます。」
 みなさんも昔の特撮映画をご覧になって、同じように感じたことはありませんか。これは、本来数十キロメートル程のさしわたしのある東京湾の代わりに、数メートル程度の模型の水たまりを使って撮影することに原因があります。スケールが縮小されたため、みかけの海水の粘性が増加したのです。
 上記の例のように、身の回りで起こる様々な事象は、スケール変換に対して不変ではありません。このような性質のことを非線形性と呼びます。身の回りで体験出来る物理法則は、ほとんどの場合、非線形なのです。人間は知らず知らずのうちに、物理法則を感覚的に体得し、それに従うものは自然、反するものは不自然であると感じるのでしょう。

2.自然な音楽を合成するには我々に身近な楽器も例外ではなく、非線形なシステムです。確かに、楽器自身の共鳴等の音響現象は線形ですが、楽器を駆動する部分、すなわち、発音機構は非線形なのです。そのため、音の高さや強さが変化すれば、波形が変化します。変化の度合は楽器によって異なり、楽器の音色を特徴づけます。
 FM音源などの初期の楽音合成では、この波形の変化を再現しないまま、単に音の振幅や周期のみを変化させていたため、得られた合成音は非常に不自然でした。現在、広く用いられているPCM音源は、サンプリングされた楽器音を加工し、再生する合成法ですが、あらゆる音程、強弱に対してサンプル音を持つことは不可能なので、音色の忠実な再現には不十分です。これらに代わり、最近注目を集めている合成法に物理モデリングがあります。これは、駆動機構を含めた楽器の発音過程を全てシミュレートし、音を合成しようとする方法です。現在のところ、楽器の発音過程は全て明らかになっている訳ではないので、シミュレーション法の開発と同時に発音過程のモデル化が研究されています。
 ではここで、金管楽器の音が音の強弱によってどう変わるかを見ましょう。図1にトランペットの吹奏音を示します。音の強さに応じて波形がかなり変化しているのがわかります。実際に聞いてみると、弱い音の時は、倍音(*)の少ない澄んだ音色がする一方、強い音では、倍音の多い割れた音色がします。ところが、リードの役目をする奏者の唇の振動は、音の強弱に応じて、その振幅は増減するものの、常にほとんど正弦的であることが観測されているのです。もし、唇の開口面積に比例して、楽器に流れ込む息の量が増加するのならば、楽器の共鳴は線形ですから、音の強弱に関わらず、倍音の少ない音が出るはずです。実は、唇の開口面積と息の量とが比例するのは、振幅が小さい時だけで、振幅が大きくなると息の量は飽和してしまうのです。その結果、音は歪み、倍音の豊富な音がします。息の量を決定しているのは流体力学ですが、これが非線形だったのです。
 波形の変化を再現するために、楽器の共鳴、唇の振動、流体力学の3つをモデル化して楽器音を合成しました[1] 。得られた合成音の波形を図2に示します。実際の楽器の発音と同じように、音が弱いときには、なめらかで倍音の少ない波形、音が強いときには、角張った倍音の多い波形が再現出来ているのが分かります。

3.「変わった」発振体制
 さて、楽器発音機構の非線形性は、単に音の高さ・強弱に応じて、その波形を変化させるだけではありません。実はもっと極端な効果をもたらす場合があります。発振体制を根本的に変えてしまうのです。この発振体制が変化する現象を、非線形力学[2] では、分岐現象と呼んでいます。図3は発振体制が他の発振体制に分岐していく様子を概念的に描いたものです。左上は無音、右上は通常の体制である周期発振を表しています。周期発振体制は、さらに、様々な「変わった」発振体制(左下・右下)に分岐します。クラリネットの人工吹鳴では、もっと複雑な発振体制であるカオスも見つかっています[3]
 バイオリンなどの擦弦楽器で、どんな「変わった」発振体制が現れるのか2つ例を上げましょう。擦弦楽器の音域の中には、良い音(周期音)を持続して弾くことの難しい個所があります。演奏中その個所に出くわすと、擦弦音は急に1オクターブ上昇したり、音程はそのままですが、ざらついた、あるいは、うなりのある不安定な音に変化します。この音は、演奏家の間では「ウルフ音」として良く知られています。非線形力学では、準周期発振と呼ばれているものに相当します。もう1つの例は、サブハーモニック発振です。普通に擦弦している状態から、弓の圧力を極端に強めると、音の高さが突然1オクターブ低くなります。丁度、バイオリンでチェロの音域の音が出せるのです。
 これらの発振体制は通常のきれいな音ではありません。いわば、良い音を出そうとして、失敗したときの音です。通常の演奏では、奏者は、出来るだけ変な音を出さないよう努めます。しかし、これらの音は非常に特徴的であるために、音と音の間で過渡的に聞こえるだけでも、楽器特有の音色に影響を与えます。
 物理モデリングでは、これらの「変わった」発振体制をどの程度再現出来るのでしょうか。われわれの金管楽器シミュレーション[1] では、マルチフォニックと呼ばれる「変わった」発振体制が再現出来ています。また、音の立ち上がりで、バイオリンの「ウルフ音」のように、うなりが発生する現象も観測しました。しかし、これらは、まだ、「変わった」発振体制をシミュレートしたほんの数例に過ぎません。実際の楽器音と対応を明確にするためには、楽器の吹鳴実験や、発音機構の精密なモデル化が重要です。

4.まとめ
 結局のところ、自然な音の秘密は、発音機構の非線形性にありそうです。種々の楽器の発音機構を明らかにすること、モデル化、シミュレーションを通して、楽器音に自然さをもたらす普遍的要因を知りたいと考えています。


参考文献


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