人工生命の最前線
進化システムとしての人工脳を目指して



1情報を生み出すコンピュータ
 C「何かお困りですか?」S「部長からこの文章もっと易しくならないかとのことなんだが…」C「新聞用に書いたものがありましたね。」S「家のパソコンにあるけど、ファイル名なんて憶えてないな」C(パソコンと通信後)「手に入れました。…このように変更してみましたが?」S「…なるほどね。ちょっと考えてみるよ。」…
 道具としてのコンピュータは大変便利なもので、今では私達の生活にとって欠かせないものになりました。エアコンの温度調節、ご飯の炊き加減や洗濯のしかたの調整などボタン1つで済むものから、難しい計算や問題を解いたり、文章を書いたり、電子回路やプログラムを設計したりなど思考や生産的な仕事の支援まで。コンピュータはそれらの機能をプログラムという命令手順書に従って実現し、ユーザである人の指示に基づいて実行しているわけです。
 ですが、指示された時だけ、決められた通りのやり方で、決められた通りのことしかやってくれない、という意味では、今のコンピュータは融通のきかない道具でしかありません。
 コンピュータの方から人に働きかけたり、アイデアを出してくれたり、指示した以外の情報を集めてくれたりなど、受け身の道具ではなく、コンピュータが私達人間の思考のための良きパートナーとなれないか。上の例のように、情報を生み出せるコンピュータ(C)を創りたい。ある程度自分で判断でき(自律性)、情報を生み出せる(創造性)コンピュータを実現したい。そのようなコンピュータとのコミュニケーションによって、私達の発想や想像力も豊かになり、私達自身の創造性や生産性も大きく向上することでしょう。
 さらに、コンピュータ同士が自由にそして自律的にコミュニケーションできる情報ハイウェイの時代が来れば、人とコンピュータとの連係による創造的な世界はますます広がることでしょう。

2人工生命:生命体的/社会的なパラダイム
 人工生命といってもきちんとした定義があるわけではありません。「生命とは何か?」さえうまく定義できないのですから。でも、生命や生命体の特徴的な働きや振る舞いなどを指摘することができます。たとえば、生命は遺伝を通して子孫を残します。また、生命は1個の受精卵から生体を発生、発達させます。さらに生命には、深沈炭車や免疫、環境への適応や進化などの特徴があります。このような生命や生命体の特徴をコンピュータの中で人工的につくり出してみよう。そういう試みが人工生命と考えてください。
 私達は、自律性や創造性といった機能を実現するための、新しいパラダイム(概念的な思考の枠組み)として人工生命の考え方を取り入れます。
 たとえば、ある種のアメーバは普段は個々単独に分裂増殖しながら生活していますが、「餌がないよ!」と誰かがアラームを出すとぞろぞろ集まってきて、移動に適したひとつの構造体をつくります。また、別の例として私達が物事を理解する過程を考えてみますと、はじめは断片的な知識や情報をもとに質問したり反復しながらある形にまとめようとするわけです。そして、それらがうまく一つの形にまとまったとき私達は物事を理解します。
 これらの例のように、システムを構成する要素の集団と、要素同士がお互いに影響し合う(相互作用)仕組みを考えます。環境から与えられる刺激や情報にいくつかの要素に反応し、それらの相互作用が働き出します。そして、それらの相互作用の結果、ある種の“形”(組織、構造、秩序、ネットワーク、全体的な状態など)が出現します。その“形”がさらに他の要素の反応を呼び起こして“形”が変化する。そのような仕掛けで機能を実現したり情報を処理しようというわけです。
 ただ、大事なことは、要素がいつまでも固定ではなく、生まれたり消えたり、増えたり減ったり、結合したり分裂したり、そのものの性質が変化したりする仕掛けも考える点です。たとえば、そのような仕掛けの一つとして、自然界の生物進化と同じように、自然淘汰のようなものを考えようというわけです。

3“進化するシステム”としての人工脳
 よくコンピュータは脳にたとえられます。そこで、自律性と創造性に富んだ未来のコンピュータを人工脳と呼ぶことにします。先に上げたように、私達は人工脳のモデルとして内部に発生と変化の機構をもち多種多様な要素からなる社会のようなものを考えています。そして、ソフトウェアだけでなくハードウェアの構造も自律的に創り変えていく、すなわち、進化するシステムとしての人工脳の構築を目指しています。
 生体の脳をそっくりそのまま人工的につくろうというのではありません。生体の脳では、生誕前後から幼少期にかけて神経細胞(入力と出力をもつ処理要素)が大量に発生します。そしてまた大量に死ぬ過程で、残った神経細胞が入出力の枝を伸ばし、出力の枝が他の神経細胞の入力の枝に出会うことでネットワークを形成します。(枝同士の結合部あシナプスと呼び、結合強度は可変です)。その後、神経細胞は減り続けるだけです。幼児期の脳が柔軟性や創造性に富むのは、構造(つまりハードウェア)が成長過程にあり柔らかいためです。シナプスの結合度は学習や経験によって影響を受け、少しずつ変化して、ネットワークの構造が固定化していきます。そして、生体とともに死に、いくら学習や経験を積んでも子には遺伝子しか残せず、発生・成長・変化を何世代に渡って繰り返しながら進化していくわけです。
 私達が目指している人工脳では、柔軟性が要求される時には、全体でも部分的にでも何度でも幼児期に戻し、神経細胞を増やしてネットワークを張り替えることができます。生体の脳は生体に見合った大きさに限定されますが、人工脳は限定されません。そして、死ななくてもよいのです!ですから学習や経験の結果を残したまま、新しい部分をつけ加えるように進化させることもできるでしょう。小さな人工脳から多種多様な人工脳を増殖、進化させ、人工脳の社会をつくることもできるでしょう。
 私達は、そのような進化するシステムとしての人工脳の創出を目指して、ソフトウェア進化やハードウェア進化などの研究を進めています。ソフトウェア進化では、自己複製するプログラムが突然変位と淘汰を通して新しい機能を自らつくり出すモデルを並列計算機上に構築し、機能の創造とプログラムの最適化のみならず処理の並列化(プロセッサへの処理の分配と統合など)も自律的に行う実験に一部成功しました。ハードウェア進化では、脳神経系の基本モデルであるニューラルネットをう、ハードウェアとして発生・成長させる新しいアイデアを提案し、ハードウェア実験を始めようとしています。その他、既存のプログラミング言語を用いた進化的な方法論、環境に適応した行動の自己組織化の過程を記述する新しいモデリング言語、自然界の生物に学んだ遺伝や進化の数理モデルの提案など、すでにいくつかの成果も出つつあります。これらについてはまた別の機会にお話しすることにします。
 人工脳は、生体の脳が生体であるがための限界を打ち破る大きな可能性を秘めています。私達は、そのような進化するシステムとしての人工脳の創出を目指して、ソフトウェア的な方法論に留まらず、ハードウェアとして具現化し、さらにナノ・テクノロジー(個々の原子や分子を操作して構造体を作る超々微細加工技術)との融合も視野に入れた、ATRグループとしての研究展開を考えています。



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