眼球運動と脳の視覚情報処理




(株)ATR視聴覚機構研究所 視覚研究室 山田 光穂



 人と人とがコミュニケーションを図る、あるいは、通信・放送分野などでの情報の伝送の際に重要な役割を果している視覚情報処理機構を明らかにすることは、極めて興味深い課題です。そのための手段として、従来から様々な課題を被験者に課して被験者の反応から視覚情報処理の仕組みを探ろうとする心理学的手法、脳からの電気パルスを測定する神経生理学的手法、痴呆症等の患者を対象として心理検査から臨床的治療に役立てる過程で、脳の視覚情報処理過程について知見を得ようとする神経心理学的手法などがあります。
 我々は、眼球運動を用いて人間の視覚情報処理機構を客観的に明らかにすることを目的として研究を進めています。眼球運動は眼球を支える6本の眼筋によって生じますが、その駆動には、脳内の様々な処理機構が絡むことが知られており、心理実験の中で、被験者の主観的な反応を捉える過程のいわばプローブのような役目として、また、最終的な反応を測る客観的なセンサとして役立てることが可能と考えられるからです。

1.眼球運動の性質
 ここでは、まず眼球運動の性質について簡単に説明します。両眼の眼球運動の間には、左右の眼同じ方向に動く共同運動と、三次元的に距離の異なる視対象を見るときに生じる互いに反対方向に動く輻輳開散運動があります。さらに、輻輳開散運動は、近くを見るときに生じ、両方の目が内側に動く輻輳運動と、遠くを見るときに生じる逆の動き、すなわち開散運動に分けられます。それぞれの目に注目しますと、固視微動、随従運動、跳躍運動(サッカード)の3つに大別されます。一点を凝視しているとき、目は完全に止っているように見えますが、実際には図1に示すようにたえず細かく動いています。これらの動きを固視微動と呼び、固視微動にはフリック(flick)やトレマー(tremor)、ドリフト(drift)と呼ばれる成分が含まれます。
 随従運動は、運動画像など動く視対象を追従する際のみに生じる動きで、最高速度は瞬間的に30度/秒に達しますが普通は数度/秒程度といわれています。跳躍運動(saccade,サッカード)は、跳ぶような速い動きで、動いている画像を追従しているとき、画像が速すぎて、追随できなかったり、動きを予測しているとき生じます。また、跳躍運動は、本を読んだり静止画を観察しているときに、注目している視対象を移動する際にも生じ、最高速度は600度/秒に及ぶといわれています[1]。ここでは、これらの眼球運動の中で、輻輳開散運動、固視微動、跳躍運動に焦点を絞り話を進めます。

2.眼球運動の検出法
 眼球運動の検出法としては、角膜(黒目)と強膜(白目)の反射率の違いを利用する強膜反射方式を用いています。この方式の原理を図2に示します。水平方向の眼球運動の検出には、センサを黒目に向け両側のホトダイオードの反射光量の差を検出します。垂直方向に関しては、目の下の縁にセンサを設定し、両側のホトダイオードの出力を加算して検出します。眼球運動の検出法にはこの他に、眼球中の角膜部が、網膜側に対して10〜30μVの正の電位を有していることを利用して、眼のまわりの皮膚上に電極を装着することにより測定するEOG方式、角膜の曲率中心と眼球の回転中心が異なることを利用して、眼球に入射したスポットライトの角膜内部の虚像が、眼球の動きとともに相対的に移動するのをテレビカメラで撮影し、測定する角膜反射方式、コイルを埋め込んだコンタクトレンズを被験者に装着し磁場の中で眼球の動きとともに生じる起電力を検出するサーチコイル方式などがあります。これらの方式に比べ、強膜反射方式はセンサが小型軽量なため、取扱いやすく被験者の負担も少ないという利点があります。しかし、その分、水平の眼球運動が垂直のセンサで検出されるクロストークが生じたり、眼球の形状などからリニアリティが十分に取れないといった問題点がありましたが、コンピュータを内蔵して自動的に較正式を演算するシステムを採用することにより、取扱いも容易で高精度が得られるようになりました[2]図3は実験風景の1例で、被験者に図4のセンサ付きゴーグルを装着し、顎台で頭部を軽く固定した状態で、プロジェクタ上に提示されたランダムドットステレオグラムを観察させている様子を示しています。

3.眼球運動に関連する脳内の視覚情報処理経路
 大脳皮質における視覚情報処理の経路は大まかに新視覚路と旧視覚路の2つの経路があります([3][4])。新視覚路は受容した情報の特徴抽出や分析など主にパターン視に関わり、旧視覚路は系統発生的に古く、視対象の視野内での位置変化や注視反応など、視覚情報の処理としては間接的に関与する経路といわれています。眼球運動に直接関連する場所としては、サッカードについては比較的よく分っており、特に目的を持って眼球を駆動する際には(視覚誘導性サッカード)、線条体というところにある尾状核や被核から大脳基底核にある黒質が強い抑制を受け、その結果、黒質の上丘への抑制が弱まり、サッカードが生じることが知られています[5]。遠くや近くを見たりしたときに生じる輻輳開散運動は後頭葉に関連することが示唆されていますが、固視微動など他の眼球運動とともに残念ながらあまり知られていません。図5にこれらの主な経路をまとめて示します。以上に述べたことは神経生理学や神経心理学の成果として得られたものですが、画像処理装置の電気回路の様に個々の特性やブロック間のタイミングまで細かく分っているわけではありません。我々の立場は、眼球運動を介してこれら未解決の問題を解明し、工学的に役に立つシステムの提案に結びつけようというものです。以下の節で具体的にATRで行っている研究について紹介します。

4.頭部運動と眼球運動の相互関係
 従来、視線の動きを分析する場合、眼球運動のみが注目されていました。しかし、人間の行動を観察すると、重要な情報に対しては、目を横に動かして見るのではなく、頭部を向けて、そのものと正対して見る傾向があります。このことは頭部運動の重要さを示唆していると思われます。
 眼球運動によって変化する網膜上の画像は、体の向きという頭部座標系の上で組み立てられています。3次元空間内で注視点を移動させるためには、頭部移動量と眼球移動量を同時に計算する必要があります。従って、頭部運動と眼球運動の分析から、座標系の変換など空間視が如何に行われているかについて有効な知見を得ることができると考えられます。
 このような理由から、ATRでは新たに頭部運動と眼球運動による視線の動きを同時に分析できる装置を開発しました[6]。眼球運動は前述した強膜反射方式により検出し、頭部運動は磁気センサにより検出します。本装置の特徴は、回転系、平行移動系の計6自由度の頭部運動を検出できること、頭部移動量を眼球運動と同じ網膜上の座標系に変換してリアルタイムで精度よく分析できることです。図6は水平方向に30°離れた視標を提示し、この視標を注視させたときの頭部運動と眼球運動について、この装置を使って測定した例です。まず頭部の回転と平行移動が生じ、約0.3sec後にサッカードが生じています。眼球運動だけに注目すると、サッカードから頭部運動を補償する動きに転じ、停止している期間がなく(図中(1))、これに対して、頭部運動も含めた視線では30°で空間上を視線が停止し注視点が生じていることが分かります(図中(2))。
 また、視線の動きに占める頭部運動の比率を分担比と定義して、水平方向だけでなく2次元方向上の各方向で求めると、視線の移動量が30°と大きくなると、ほぼ60%になること、即ち30°の視線移動では頭部で約20°、眼球で約10°の分担で移動することが分かっています。
 これらのことから、視覚情報を効果的に捉えるために頭部運動と眼球運動が巧妙に組み合わされていること、大きな視線移動では、両者の移動量が予めプログラムされているのではないか、という様なことが推察されます。空間の認知は、下頭頂葉や前頭前野など視覚前野が関係し、随意的運動の発現には大脳基底核、注視点の定位反応には上丘が重要な役割を有することが分かっていますが、これらが頭部運動と眼球運動の制御にどの様に関わっているか、2つの運動系の座標系を1つの座標系に統合する空間の認知のメカニズムはどの様にして実現されるかといった問題が今後の課題です。

5.両眼眼球運動の測定
 輻輳開散運動は、後頭葉が深い関係を持ち、系統発生的には最も新しく出現した運動であり、霊長類の他はネコで知られているだけです。輻輳開散運動が生じるには、両眼の不一致や網膜像のぼけの検出など、パターン視と関連し高度な視覚情報処理が必要と考えられます。魚森らは[7]、被験者が二眼式立体画像を融合視している条件下で、一方の視標だけを動かす実験を行っています。このとき、左右非対称な眼球運動が生じ、視標が動いてない方の目にも動いた方の目に比べその振幅は小さいものの眼球運動が生じることを報告しています。これは、脳内で1つの像として捉えているために、もう一方の眼球運動系へ制御信号が送られた結果と考えられます。このときもう一方の目に輻輳開散運動が生起されるか、もしくは他方の目と同じ方向に動く共同運動が生起されるかを分析することにより、脳内で奥行運動として認識したか、奥行を感じず平面上の運動として認識したかの客観的指標にすることができると思われます。3次元空間内での認識を測るための有効な手段となるかもしれません。
 輻輳開散運動について調べたもう1つのおもしろい例として、名古屋大学との共同研究で工藤ら[8]は、円柱などを見たときに生じるオクルージョンに対する眼球運動について報告しています。オクルージョンは、3次元物体の縁など、一方の目だけに見えてもう一方の目には見えない現象をいい、このとき両眼の網膜像に不一致が生じます。人間の視覚では、その様な条件でも左右眼の照合を行って3次元物体の認識を行わなければなりません。その様な過程が眼球運動に反映されると考え、調べた結果、縁を周辺視で捉らえ、両眼の中心視での不一致を避けようとするオクルージョン回避の機構の存在が示唆されました。この様に、人間の視覚系の持っている巧みな機能を分析することにより、コンピュータビジョンでの3次元物体の縁やエッジの検出などに役立てられるのではないかと期待しています。

6.注視点の情報処理
 本を読んでいるときの目の動きは、ほぼ単語毎に生じる注視点と次の注視点に跳ぶためのサッカードが繰返して生じます。1回の注視時間は200〜300ms、その間に文字情報の読取り、脳内の辞書との整合、意味の理解、そして次の注視位置の計算と複数の処理が同時に行われていると言われています[9]。すなわち、新視覚路、旧視覚路、大脳基底核から上丘へのサッカード駆動系と視覚系の処理機構の全てに絡んだ複雑な処理が1つの注視点で行われていると言うことができます。
 この様に、注視点における視覚系の働きは、視覚情報処理機構の機能をコンパクトにまとめた結晶ともいうことができます。加藤ら[10]は、文字の品質の評価でそのきれいさを判断する重要なファクターが注視点にあるのではと考え、文字のきれいさを評価中の注視点位置の分析を行い、文字の品質の客観的評価パラメータの決定に役立てようという研究を行っています。
 本郷らは[11]、1つの注視点内での情報処理機構を調べるために、注視した直後、任意の時間に注視位置をマスキングできる装置を開発しました。図7は○△□を散りばめた提示画像中から○の数を数える課題を与えたときの実験中の画面の1例です。注視点の生じた最初の数10ミリ秒は注視点の領域は見えていますが、その後はこの図の様にマスキング画像が表示され、パターンが見えなくなります。この実験では、個人差は若干ありますが、少なくとも66ms見せれば十分に視覚情報を取入れ、数えられること、注視点1個当りの注視時間は、注視位置に視覚情報の提示されている時間とは無関係に300ms前後とほとんど変化しないという結果が示されています。一点を固視させて、画像を提示する短時間提示の実験では、8ミリ秒で8個までのドットをカウントできるという報告があります[12]。この例で示すように眼球を自由に動かすことのできる条件では、サッカディックサプレッションというサッカードの前後で視覚機能の低下する現象があるため、より多くの提示時間が必要となります。この装置を用いることによって、より自然に近い条件下で実験を行うことができ、各経路の処理時間や視覚野、視覚前野等の各領域間のタイミングなど視覚情報処理の仕組みが、さらに具体的に明らかになるのではと期待して研究を進めています。

7.眼球運動の制御機構
 眼球運動を用いて様々な視覚情報処理機構の解明に向けた実験結果について述べてきました。視覚情報を取入れ、それが眼球運動に反映されるまでの系の自由度の様なものが分かれば脳の働きを客観的に評価できる可能性があります。
 固視微動は先に述べましたように、一点を注視しているとき生じるランダムな微小眼球運動であり、従来は、視覚情報処理には無用のものと考えられていました。しかし、最近では、静止網膜像(眼球の動きを提示画像にフィードバックさせると、網膜上の像が眼球運動にも関わらず静止し、網膜像が消えていく現象)に頭部を固定していない条件で生じる固視微動程度の動きを付加すると最も解像度がよくなるという事実が報告され[13]、固視微動の有用性が示唆されています。このようなことから、吉松ら[14]は、固視微動を用いて視覚系の評価に活用できないかと考え、固視微動がカオスの1種と仮定し、一点を注視しているとき生じる固視微動のフラクタル次元について分析を行い、有限なフラクタル次元を得ています。フラクタル次元は、系の自由度と考えることができ、このことは固視微動はランダムな運動ではなく、有限な自由度を持つ制御系に支配されていることを示唆しています。この様な研究を発展させ、今、処理している視覚情報が脳のどの系を通ったか、また、どれだけ複雑な処理を要したかなどを、フラクタル次元の変化から客観的に分析できる可能性等を明らかにしていくのが今後の課題と考えています。

8.まとめ
 眼球運動から、運転中の視線の動きやスポーツ選手のプロとアマの視線の動きの違いなど、人間の行動を分かりやすく、かつ客観的に評価することができ様々な分野で研究が行われています。
 ATRでは、眼球運動が情報の入力部であり、かつ処理結果の出力部でもあることに注目し、眼球運動の分析から、脳内の情報処理機構を明らかにしようと研究を進めています。最近では、さらに札幌医科大学と共同研究を行い、アルツハイマー病患者の視覚処理過程を分析し、アルツハイマー病患者の場合、頭部運動量が有意に減少し[15]、輻輳眼球運動の潜時が延びサッカードが多発すること[16]、また、健常者に比べマスキングによる影響が大きく、記憶の保持との関連が示唆される[17]等の結果が得られています。これらの結果から、病因の解明、治療に役立てようとする試みも行っています。
 眼球運動を調べることにより、脳の中でどの様な情報処理系が駆動され、認識や判断などの反応が生じているかを明らかにできるようにすること、またこの様にして得られた結果を元にして、人間系の巧みな情報処理機構を手本にした新しいヒューマンコミュニケーションシステムの開発に役立てることなどが、我々のこれからの課題であり、また夢でもあります。


参考文献