人間の運動視知覚機構
ATR視聴覚機構研究所 視覚研究室 佐藤 隆夫
1.はじめに
視聴覚機構研究所では、人間の視聴覚のメカニズムの解明を目的として研究を行っています。このような研究に取り組む大きな理由は2つあります。
第一に、電気通信において、人間に使いやすいシステムを作るためには、人間の見たり、聴いたり、考えたりする仕組みを理解しておく必要があるからです。
第二の理由は、文字や顔、音声の認識など人間がたやすくやってしまうことでも、機械(コンピュータ)にはまだ不十分にしかできないことが多くあるからです。高度な知的機能を持つ通信手段を実現するためには、人間の優れた視聴覚機構を解明し、モデル化し、機械として実現して行くというアプローチが有効なものとなります。
こうした努力の一環として、視覚研究室では人間が運動する物体を見るメカニズムを明らかにするための研究を、視覚心理実験、コンピュータによるモデルの構成の2つのアプローチから行っています。今回は、ランダム・ドット・パターンの仮現運動に関する視覚心理研究の一部を紹介します。
2.運動視知覚の3段階
我々が見る物はすべて動いています。静止した物でも、我々の体や、眼球がつねに動いているので、結局は運動していると言えます。また、人間の歴史の中で視覚の第一の意義は獲物や敵をすばやく発見することにあったことは言うまでもありません。このように考えると、運動の視知覚は視知覚機能全体のなかで最も基本的なものとも言えます。運動の視知覚には3つの段階があります。第一は運動の検出、つまり止まっているものと動いているものを区別し、動いているものを見つけ出す段階です。我々が見るものは、すべて動いているわけですが、我々はあるものは動いていると見なし、あるものは静止していると見なします。第二の段階は、運動の方向、速度などの知覚、つまり運動の性質の知覚です。第三は、運動している物体の認識、つまり動いているものが何かという知覚です。運動している物体を背景から切り出すという仕事もこのステップの一部です。
3.ランダム・ドット・パターンの仮現運動
動くネオンサインをよく見かけます。この場合、ネオンランプが実際に動いているわけではなく、多くのランプを適当な時間間隔で点けたり消したりすることを繰り返すことによって、まるで動いているかのような視覚印象を作りだしているわけです。
この様に、実際には動いていないものが動いて見える現象を視覚心理学では仮現運動と呼び、実際の運動と区別しています。踏切の赤い警告灯が往復運動して見えるのも仮現運動の一種ですし、映画やテレビも1コマ単位で見れば動いていないものを仮現運動の原理で動くものとして見せているわけです。
一方、太陽や月の動きはゆっくりすぎて運動としては見えません。しかし、位置の変化から運動があったことを推測することができます。 このような、間接的な運動の推測と踏切の警報灯や映画のような直接的な運動の知覚とを区別するために、我々の研究室では図1にあるようなランダム・ドット・パターンと呼ばれる、図形的な特徴が少ないパターンを用いて仮現運動の研究を行っています。
図1のパターンはパターン全体を細かいマスに区切り、それぞれのマスにランダムに白黒を割り当てて作ったものです。
このパターンを、ごくわずかずらしたものを2枚、100〜300ミリ秒ずつ交互に提示すると、パターン全体のきれいな往復運動が見られます。
4.運動の知覚と運動による形の知覚
図2のパターン対は、T1とT2(ターゲット)が全く同一、またB1とB2(背景)が相互に全く相関のないランダム・ドット・パターンからできています。ただし、T1とT2は位置を多少ずらしてあります。このような対を継時的に提示するとターゲットの滑らかな運動が見られます。それだけでなくまとまって動くターゲットが、無秩序に運動をする背景からくっきりと分離して見えます。もちろん、一枚のパターンを長時間、静止したものとして提示しても何も見えません。2枚のパターンを継時的に提示し、運動を作り出すことによってはじめてターゲットの輪郭が鮮明に浮き上がってきます。これは、ジャングルの中でじっとしている間は全く見えなかった豹が、ちょっと動いたとたんにはっきりと見えてしまうという自然界の状況を実験室で再現したものということもできます。
この事態では、運動することによって運動対象の認識が可能になっているわけですが、運動が認められればつねにターゲット認識が可能だというわけでもありません。
図2の刺激のような場合、ターゲットの水平移動距離、つまり運動の振幅(Dl)が視角で十数分程度まで運動の方向がほぼ正確に判断できます。しかし、ターゲットの形が鮮明に知覚できるのは6〜7分程度の振幅までです。つまり、中間に運動方向は確実に分かるターゲットの形ははっきりしないという領域が存在する訳です。
運動の振幅をだんだん大きくして行くと、はじめ、背景から鮮明に分離したターゲットの滑らかな運動が認められていたものが、やがてターゲットの輪郭が不鮮明になり、次に角が無くなり形態が不鮮明になり、最後にはぼんやりとした霧か霞のようなものが運動しているという状態を経て、ついに運動方向の判断もできなくなっていってしまう訳です。
ここで重要なことは、運動が知覚されていても必ずしもターゲットの形態知覚が成立する訳ではないということです。上の実験結果は、運動方向が正しく知覚されていても、ターゲットの形態、輪郭が鮮明に知覚されない場合もあることを示しています。
同様の結果は、明るさと、色に関する情報の運動知覚において果たす役割を検討するための実験においても見いだされました。この実験では、図1のようなランダム・ドット・パターンを白黒ではなく、赤と緑のドットで作り、赤と緑の明るさの比を様々に変化させて運動方向、ターゲット形態の判断を行ってみました。その結果、赤と緑の明るさが等しい時運動方向の判断はできるが、ターゲットの形態、輪郭の知覚はほとんど成立しないことが判りました。
この様な結果から、運動する物体の背景からの分離のためのメカニズムは、運動方向や速度など、運動そのものの属性に関する知覚のメカニズムとは異なったものであることが明らかになってきました。今後、その2つのメカニズムの関係、明るさ、色情報の関係などを、より詳細に検討し、モデル化していく必要があります。
5.むすび
ここでは視覚研究室で行っている運動知覚に関する視覚心理研究の一部を紹介しましたが、このような心理実験に基づく研究の結果、運動の方向や速度を検出するための機構と、運動による対象の分離を行う機構とは互いにかなり独立して働いているということが分かってきました。
我々は、こうした事実に基づいた人間の運動視知覚機構のコンピュータ・モデルを構成することも進めています。また、誘発脳波を指標とする、人間の運動視知覚に関する生理学的な研究にも着手しています。
このような基礎研究の成果は、これから、動画像理解システムや動画像の提示システムをより優れたものにしていくことに生かされて行きます。
参考文献